みーぽんサンが、「トライバリズムの克服」と題して書いておられるのを見つつ、ずーと考えていた。もともと「民族自決」を唱えたのは、USAの大統領ウィルソンだったよな、と
カリフォルニアはいよいよ明日のスーパーチューズデーで、各党の予備選が行われます。日々発表される世論調査では「オバマが上昇中」で、ヒラリーとほぼ支持率が拮抗するまでになったとのことです。あきらかに中道でも右派に近いヒラリーに対し、今までエドワーズ、クシニッチといった候補を応援してきた層がオバマに流れることを考えれば、この傾向は当然のことでしょう。ビル・クリントンがオバマ攻撃をしすぎて嫌がられた、とい... スーパーチューズデー、そして「トライバリズム」の克服
>アメリカのコインに「多様性の中の一致」(E PLURIBUS UNUM)と彫ってあるんですよ と私のコメントに答えて、教えて下さったのだけど、 とすると、ウィルソンはどういう社会像を思い描き、民族自決と多様性とを両立しようとしたのだろう……。
いちばん(私として)そうあってほしいと思う答えは、 「個々の人間に還元したとき、多様性の根元は個性の中にあるのであって、民族性は副次的なのだ(だから気にしないの!)」 である。アメリカの人たちならば、案外無邪気にそう言い放つかもしれない。
けれど、実際には、民族というものは、個性の上位に位置づけられる。個人がどれだけあがいても、「民族」の枠組みで語られ統合されていく。自分から「民族」を選ぶことができないというのに。 それだけではない。民族(その特性)が統治の根拠になり、原則になるという、政治性をも持つのには、正直私は恐怖を持ってしまう。なぜなら、私は、生粋のヤマト族のはずなのに(そして日本の伝統文化や歴史には人一倍興味があるはずなのに)、ヤマト族の持つ文化・精神性に素朴な疑問を持ち、無邪気に「信仰」できずにいるからだ。 例えば、廃仏毀釈には、仏教徒の神人に対する差別(これが江戸時代の部落差別の一つの根拠になっている)への復讐という意味合いがあったこと……これなどは、民族・文化を考える上で、十分過ぎるくらいの困惑を私に今なお与えている……。
そんななか、民族を政治スローガンにすることで、排斥、いや民族浄化まで行われ、当事者達はそれを当然と見なしている……、マルクスだっけ?「宗教」を麻薬に喩えたのは。それは、不十分なのだろうな、正しくは「民族意識」こそに麻薬性があるのでないか?
ところで今日、コソボが独立宣言した。 [READ MORE...] テーマ:平和を願う - ジャンル:政治・経済
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