ほしあかりをさがせ
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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評論界の万能調味料としての「ナショナリズム」
ときならぬ、韓国コンテンツ(タレント)への拒否反応と、フジテレビ叩きが、蔓延している。

そのほとんどが、はっきり言って幼稚な言いがかりのレベルを出ていないのだけど、
ふかわりょう氏がラジオで言った内容に関して、論評しておきたい。
(もっとも私は、彼がこの発言をしたDJ番組を聞いていない。だから報道内容に沿った論評と考えてください)
私が幼稚とまで言う理由は、
「韓国」という国名(民族、かもしれない)を出して、ナショナリズムに絡めた考察に偏り続け、
背景にある真の問題や原因に、気づけていないからである。

ナショナリズムを「てきとーな飛び道具」につかって、目くらましにして、
真実にたどり着けると思っているのだろうか
まったくもって、私には疑問である。

さて
彼がまず主張したことは、放送内容の人為的な偏りについてだ。
公共性のある電波媒介での放送で、営利を主眼においた偏頗な扱いを非難し、ルール違反だと主張している。

>「影響力がある公共の電波を用いて一企業(放送局のこと、引用者注)の私腹を肥やすやり方を推進するのは違反なことだと思う」
>「CMだったら視聴者はCMとして受け止めるけど、番組で取り上げるのは世の中の現象がこうなっているかのように偽装している。そこにメディアの大事な境界線がある」
>「刷り込みとかって、僕らはまだ判断できるけど、小中学生はそれが全てになってしまうから」


これらを非難するのならば、まず、K-pop云々を言う前に、FM局も含めた放送局の番組編成全般を非難するべきだろう。

FM局を少しでも聞いたことがある人なら、「マンスリーパワープレー(*)」と銘打った、月ごとの「放送局おすすめの1曲」というのが掛かるのを聞くことになるだろう。(*局によっては「ヘビーローテーション」などの言い方をしているけれど、同じものだ)
その曲は、だいたい2時間に1度はフルコーラスを放送され、1か月後には否応なしに覚えてしまえるくらいに、強烈な「推し」圧力をリスナーへ与える。
あまりに当たり前な「普及キャンペーン」だから疑問に思う人が少ないだろうが、あらためて考えてみよう
あなたは、「この曲がマンスリーパワープレーに選ばれる過程を知らされているだろうか。誰の推薦で決まるのか、何を評価され決まったのか、知らされたことがあるだろうか」

ラジオリスナー歴20年余り‥‥それもヒマがあったらラジオばかり聞いていて、一日の平均聴取時間が8時間を超えている私が断言する
そんなことは、一度として説明を受けたことがない。

それは、真正面から問うのが野暮なくらいの「大人の事情」があるわけだろう。
そうして、ある曲で「新曲紹介枠」を寡占することによって、公器である放送局が、特定のコンテンツ制作会社の便宜を謀っているわけである。
上記は、一朝一夕に始まったものではない。もう30年は続いている慣行だ。
そうした便宜を、韓国の制作会社を得た‥‥というのが、仮にK-popブームの正体だったとしても、
その原因は、韓国の制作会社にあるのではなく、あくまで日本の芸能界の寡占と談合に満ちた体質にこそ、しみついているのだ。
FM局でDJをしているふかわ氏が、このような体質や慣行を知らないわけでないと思うが、
彼は「韓国」という言葉(あるいは存在)に、先に先入観を持っているので、そちらにばかり注目し、避難しているわけである。

なんとも、ナショナリズムが安っぽく使われているものである。

さてふかわ氏は、「テレビは時代を映すものではなくなった」と感じたという。
つまり、時代の雰囲気を反映する能力をテレビが失った、と言っているようだ。

だが、今、日本の芸能界とその周辺を見渡して、そもそも「時代」と呼べるような共通の価値観や「光景」があるだろうか?
たとえば50年以上前なら、「力道山の空手チョップ」で世間は熱狂できていた。「時代を象徴していると誰もが認める存在」があった。
それに対して、今は、聴取者・視聴者の目や耳が肥えてきたらか、ひとつのことに興味を集中できないし、興味を身近な人と分かち合うことも難しくなっているのを、みなさんも感じているのでないだろうか。

近年では、各TV局も大人気俳優を並べた総力戦のドラマくらいでしか視聴率を取れていない
‥‥その現象を指摘するだけで十分だろう。

つまり、ふかわ氏の言い方を借りれば、「時代を映せなくなった」のではなく
「映すべき「時代」がなくなった」と描写すべき状況にあるのだ。

それだけのことなのに、まだ「マス」が熱狂するような放送がありうると信じ、それを作れないのはTV局の方針がおかしいだけだ、と信じている人たちが、出演者側にも視聴者側にもいる。

今回の韓流批判も、
結局は”「日本の伝統的な番組」をつくればみんなが見るという「ロマンティシズム」に浸っている役者さんや芸人さんが、
異物を排除すれば「かつてのテレビの栄光」を取り戻せる、と思い込んでいるだけにすぎない。

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テーマ:時事 - ジャンル:政治・経済

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