ほしあかりをさがせ
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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青臭いことをいうようだけど「優しさ」について
去年の冬、当時親しくしていたひとから言われた言葉……

「あなたは優しくない、穏やかで親切ではあるけど」

この言葉の意味が、だんだんと分かってきた。

おだやかは、態度……これは目に見えるもの
親切も、態度……だいたいにして、親切なことをするには、態度だけでなく行動さえ必要なわけで、これまた、目に見えるもの。
だから、フリだけならば、それほど難しくない。現に私にもできてしまっている。ときどきはほころびがあるにしても。



が「優しい」はどうだろう?
「親切」でもなく「穏やか」でもない人の場合でも、その意図するところが相手に伝わっていれば、「優しい」ことになる。
「親切」と「穏やか」とで満たした行為であっても、「優しい」という評を受ける基準を満たすわけではないようなのだ。

ちょっと思考実験、というのか、言葉の定義を具体例で考えてみる。
相手が期待もしていず、またそうしてほしくないとも意識していない行為をしたら、
……それは「親切」になる

相手がそうしてほしくない、と思っている行為を、こちらの親切心で行ったら、
……それは「ありがた迷惑」になる

では、優しいとは。

相手が、意識しているかどうかはともかく、自分の将来にとってためになる、と納得できるような「望ましい」行為をした場合……はじめて、それが「優しさ」と呼ばれるのだ。


相手の望む状態……「こうあってほしい」と願う心、か。見えないだけにやっかいだよな。いちおうは仏教徒だし、唯物論者ではないけれど、
自分の心のありかさえ、確信がないのに、他人の心のありようを推し量る能力があろうはずもなく、私は漂浪を始めてしまう。

 あのとき……あの評をその人に言われた時から、漠然と気づいていた。
そして、相手の心にあるニーズとの一致であると確信したとき、正直「他人の心」をどうやって察することができるか、修行しようともした。
9か月経って、まだその仙術のトバ口にも立てていない。私は、まだ、人の心を察することもできない「優しくない」人間のままなのか、と、「穏やかさ」と「親切心」で「優しさ」の代用品にして、……”どうだ優しいだろぅ、と自己満足していはしないか、と、仏教徒としての自分が、私を責めてしまう。

6月頃まで、強烈な自己嫌悪に陥っていた理由の一つは、そこだった。こうして文章にすると、まだこの泥沼から抜け出せていないのに気づく。

しかし。
仙人として、世の中に淡く接していくのには、フリだけのやさしさでもいいかな、とも、心のどこかで思うようにもなってきた。
心を悟る能力に自信がないなら(相手の心を悟るという行為にエネルギーを他人以上にエネルギーを使ってしまうのならば)、
そこに囚われるよりは、

親切を重ねていって、その行為に対する事後の責任を負う覚悟を決めるほうが、まだしも建設的でないのか?


それが本当の優しさからの行動でないと、皆から見えたとして、
それを不純だと責められるとしても、
そんな汚名は、もう怖くない。
人格やプライベートな行動の身勝手さの点で、私の名は墜ちきったなのだから……。
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テーマ:詩・ことば - ジャンル:小説・文学

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