ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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職人芸のモノヅクリと品質管理
最近余所様のBLOGで、「日本の企業は外国からTOPを招いて仕事の進め方を学び直す必要がある」、と私がコメントしたら、「日経新聞に洗脳されている」と管理人氏からコメントを受けた。アメリカ型の金融中心の産業ではなく、従来日本の優れたモノづくり中心の産業を大切にするべき、とも。
なんでも、日本の高度経済成長は、日本的システムが優れていたからこそ納めることが出来た「成功」なのだ、との解釈がなりたつのだそうだ。だからそれを捨て去るのは愚かだ、と世間一般に認識されているらしい。

私は、何を隠そう日本に冠たるモノヅクリ企業2社を、……渡り歩くハメになったのだけど、その2社ともに同じ症例があるのに気付いている。顕在化していないけれど、製品の品質を考える上で、地雷原を歩くような、綱渡りを繰り返している。

ずばりいうと、品質管理に全社的な共有概念がないのだ。
モノヅクリの現場では、通常「工程仕様書」というものが量産の前に決定される。まさにマニュアルで「この通りの手順で作るべし」と定めた掟である。設計部門は、工程上の組み立てマージンを考え、工程現場では時間のロス、ミスの極小化をめざして手順を取り決め、品質管理部門は出来上がりのばらつきを極小にできるように、両者の調整をつける……そんな風にして関係者全員で合理的な工程を仕様書へ作り込んで、量産の日を迎えることになる。

が、「日本的システム」のもとではよく言えば融通無碍、悪く言えばなし崩しが起きる。生産現場の人たちが優秀であるが故に、「工程仕様を無視してしまう」のである。「こういう『近道』を経れば、性能を損なうことなく工程をショートカット出来る」「こういう治具を追加すれば工程が楽になる……」、といった具合に、日々”改善”されていくからだ。
が、重大なことが抜け落ちているのに、お気づきだろうか。
「この種の工程改善を、設計部門・品質管理部門が全く知らない」ということである。
だから、設計部門または品質管理部門の知らない場所での工程”改善”が、性能や信頼性に影響を与えるかどうか、には誰も責任を持てないまま、継続することになるのだ。

通常この現象は、「工程現場のモラル崩壊」と分類され、克服されるべき「悪い状態」とされている。この状態が日本の企業に現れるようになったのは、高度成長期以降にコスト削減要請が激しくなった後、とされている。

がそれは本当に正しいだろうか?私はかなり本気でその定説を疑っているのだ。理由は二つある。
一つは時期の問題。
例えば、昨日明るみに出た、東京電力の原発での検査中におきた制御棒脱落への対応だ。炉内が臨界に達したとなると、(届け出るかどうかはともかくとして)、炉を停止させる工程は1からやり直しとなる。しかし、軽微だとの現場判断で、何事もなかったかのように、通常の停止手順に従ってそのまま作業が続けられたという……。そんな、コスト優先・工程優先の判断がされたのは昭和50年代のこと、「日本的システム」がまだ正常に機能していたとされている時期でのことである……。

この現象、電力会社や、私が係わった電機メーカ2社だけのものではないらしい。作家の東野圭吾サン-この人は15年くらい前デンソー(当時日本電装)で生産技術部門のエンジニアとして働いていたというキャリアの持ち主だが、彼も尼崎列車事故の直後に、この現象を仕様書上のマニュアルと実施されているマニュアルとの2つのマニュアルの乖離、と捕らえ、日本の安全思想、品質思想の欠陥として取り上げて、エッセイに書いておられた(東野圭吾「二つのマニュアル」;角川文庫「さいえんす?」収録)

なるほど、品質思想・安全思想の欠如、ではある。私の疑う2点目が現れてくるそれが本当に「悪いこと」なのか?だ。
……改めて考えると、日本式のモノヅクリの強みとされている点と表裏一体である、ということに、気付くのでないだろうか。

上に書いた”改善”をカタカナで”カイゼン”と書いた途端、肯定的な意味になるのが何よりの証拠だ。「工程が楽になる……」、といった動機のもと、日々工程が「カイゼン」されていく。そうして、「生産性」は日々向上していき、ひいては、メーカの生産性、採算性を高めていくのである
(しかも、この種のカイゼン工夫提案は、日本的経営の一つの特徴的手法として知られている「小集団活動」で奨励されることが多い!)。

一方、マニュアル化を徹底すると、生産性をブレークスルーするための現場の試行錯誤が否定され、コスト・工程時間が長期間固定されてしまう。
両者の差こそが、短期間のうちに生産性を高めることができる、という日本の産業の、最大の強みと指摘されているものの実態なのだ。
言い換えれば、日本式のシステムでは、工程現場の人たちの優秀な「勘」「経験」が巨大なシステムの中に組み込まれている。一方、関係者が智恵を持ち寄って工程マニュアルへの「作り込み」を行わないため、独りよがりな判断にシステムが左右されるという「リスク」を抱え込んでいる、とも言える。

戦後日本、このシステムで産業が発展し続けてきたのは、このような大きなリスク……吉と出るか凶と出るか実は誰も確信を持てない現場判断が、運良く大吉を引き当て続けてきただけだと考えたらどうだろう。

だとしたら、この「日本的システム」を変えないからこそ、産業界が同じ大きなリスクに曝され続け、JCOのような、雪印のような、JR西日本のような、あるいは、古い例では、森永のヒ素ミルクのような「凶」と出た「不祥事」が、時を置かず終始ある割合で出続けていることも、確率論的な理由から納得できるのだ。

そう、日本的経営システムは、よく言っても「両刃の剣」、悪く言うと「ギャンブルが過ぎる」、そんな取り扱いに注意を要する不安定なシステムなのである。
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テーマ:経営学 - ジャンル:政治・経済

この記事に対するコメント

昭和50年代には高度経済成長期は終わってますよ。
【2007/03/25 23:24】 URL | 刻廉 #- [ 編集]


刻廉さん、コメントありがとうございます。
確かに、定義的には昭和50年代を高度経済成長といいませんね、失礼しました。
文意を損ねない程度に、修正いたしました。
【2007/03/27 22:50】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]


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