ほしあかりをさがせ
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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コミュニティー、社会、そして市場
内橋克人サンを、つい最近まで深く尊敬していた。
しかし、今日、松江のホテルにて、福田氏のことをとりあげた、NHKのTV番組を見ていて、「この人とは終わってしまったな」と悲しくなった。怒りとともに。

市場原理主義がコミュニティーを壊しているという。
それだけでは足りないのか、「カルト的」とまで形容で加えた。
じゃ、何がカルトなのか?……是非内橋サンには、小川忠サンの「テロと救済の原理主義」(朝日選書)などを読んで、意味を噛みしめて欲しいと思う。

そんな言葉尻のことはまあいいとして。

「金で評価できないものを根拠とした身分こそ、不条理な人権問題でないのですか」……これは、ライブドアの元社長堀江氏がかつて言った言葉。市場は、コミュニティーの持つ閉鎖性(その必然として現れる、因習)を相対化し、無効にする力を持っている。
内橋サンはかつて、原発労働者が、なぜ社会的に抹殺され彼等が放置され続けるのかを取材し、告発している(1970年代)。その時明かになったのは、ニホンの会社(および企業城下町)においては、そのコミュニティーにとって利害の反する人を、無視し飼い殺しにする(決して「外に追いやる」ことをしない。内部に囲い込み無視するのだ)という残忍なシキタリがある、ということであった。内橋サンは、そのことを告発していたはずだった。
 なぜ、ワーキングプアが発生するのか。
 「市場原理主義が新たに呼び寄せた、アメリカ的社会問題である」と彼は規定している。ならば、逆に問う。
ワーキングプアと1970年代後半の原発下請け労働者の問題とは、同じ構造から発生しているでないか、と。
もし内橋サンが言われる通りであるなら、少なくとも原発下請労働者の問題は、コミュニティーの自浄能力により、一度解決されていなければならない。(なぜなら、彼は、市場原理主義から「新たに」発生した、と主張しているのだから)現実には、原発下請労働者の問題は、1980年代後半にも一度大きな問題になっている。内橋サンはそれを意図的にか無視している。
 そしてもう一つ、近未来の問題として、「コミュニティーの並立」という問題が現れるときに、内橋サン的なアプローチが破綻するからだ。コミュニティーを基盤として、政府がそれを補助する、という社会共助の構造が、コミュニティーの多様化により等式的に成立しなくなるからだ。
たとえば私の今住む町で、その萌芽が見えてきている。コミュニティーがいくつあるだろう。在来の住人、転勤族(必然的に会社ごとの小コミュニティーが乱立する)、在日韓国・朝鮮人、在日華僑、日系ブラジル人、フィリピン人……、これらのコミュニティーが相互にほとんど交流を持つことなく、並立している。これらの、コミュニティーは、規模も風習も在住見込み期間も異なるのだから、社会を支える基盤と等しく扱うことができない、そして一方、ある特定のコミュニティーに肩入れしてルールを作ると、文化的侵略になる。
そんな社会の中にあって、はじめて「市場」がその消極的な役割を発揮しはじめることになる。

網野善彦サンは、かつて「市庭(中世では”市場”をこう表記した)」をこのように定義していた。
「異なる共同体に属する者たち相互が、交流・交易するために、法権力を排し無縁化した空間」
確かに、このような市場の有り様は、江戸時代以降現在に至るまで絶えて久しい。しかし、なぜ絶えたかと考えれば、一地域一コミュニティーと見なす、あるいは「国民」を「民族」とを意図的に混同した社会描像=「国民国家」の中で、法権力を排する市場の原理が邪魔であったからに過ぎない。
しかし、価値観や生活慣習が異なる複数のコミュニティーが並立する社会では、プラットフォームとして、「権力」を”漂白”した市場が必要になる。ちょうど、政治学的に(あるいは法学的に)法治の原理として「立憲主義」が要求されるのと同じ理由である。……共通の価値観がない以上、統治・統制の原則を最小公倍数的に決めるよりないからだ。……そのような社会像をきっと内橋サンたちは、市場原理主義と呼ぶだろうけれど、それはもはや主義なんて”自覚的運動”ではなく、”諦念”あるいは”譲り合い”の結果なのだ。
 もちろん、在来「日本民族」の民族主義へ共鳴する人たちが、自分たちのコミュニティーのみに通用する内部合意として、かつての麗しき日本的市場を守るのは、自由である。しかし、それを複数のコミュニティーが係わる公的空間(社会)へルールとして押しつけるのは、越権である。もっと厳しく言えば、文化帝国主義的である。

 だから、最近のリベラルな人々のいう言い方に、危惧を持っているのだ。近い将来、このまま進むと、このような鼎談が企画され、和やかに進み、絶賛を受けて迎えられるという奇観を見ることになりそうで。
「日本社会の美点を守れ-新たなグローバルスタンダードに向けて/小林よしのり・唐津一・内橋克人」

そうなると、私はいよいよ、「売国奴」と投獄される日も近いだろう。


(追記)
「売国奴」で思い出した。最近、山崎正和サンを「反日的」「売国奴」と評する人が少なからずいるのだとか。その理由が、「道徳教育や日本の歴史を教科とするのに反対」といったことなのだとか。山崎サン自身はかなり保守的な人で「反日的」との評からはほど遠いハズ(一方彼の発想の柔軟さには、毎度感心しているし、尊敬する評論家の1人である)。
そんな彼まで、反日との評がされるとは、世論が国粋的な方向へ振れている証拠。
そういえば、山崎サンも、網野サンの「無縁・公界・楽」と同じ時期に、世阿弥論を起点とした室町社会についての名エッセイ「室町記」を書いている。たぶん、公共空間に働く「無縁」の原理をよく理解されているのだろう。
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テーマ:報道・マスコミ - ジャンル:政治・経済

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