天台宗の大寺「円教寺」の執事師が、 天台の一在家信者として、このお坊様にお聞きしたいことがある。 チベット民族だからといって、チベット仏教を信じることが、必然なのだろうか、と。
仏教にもじつは「発心」という入信を表明する段階がある。 発心=発菩提心(ほつぼだいしん)を明言し、 四弘誓願を唱える。
「衆生無辺誓願渡 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成」 これを名付けて、菩薩の心という。 あくまでも、自らの意志として表明して、仲間(というのか導師)に承認してもらい、はじめて帰依したことになる。 決して、生まれついての菩薩などいない
チベット仏教は、この素朴だけど重大な「個人主義」を、どこかで失っている。 ましてダライラマ体制は、僧兵を沢山抱えていた頃の、延暦寺の体制とどれほどのさがあるのか?
確かに今の自体は「法難」ではある、 しかし、私には、今回の事態は「比叡山の焼き討ち」に見えて仕方がないのだ。 北京政府にも、ダライラマの体制にも、もろともに2つのNoを突きつけることが、 日本の仏教界がなすべきことでないだろうか。 テーマ:チベット問題について - ジャンル:政治・経済
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