ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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「桜の森の満開の下」
迎さんのコメントから、ちょっと独立した話題に取り上げてみますね。

安吾の、私としては「散文詩」と呼びたくなるくらいに、語調の美しい短編小説です。
よく勘違いされますが、この短編には「桜の木の下に死体が埋まっている」という伝説は出てきませんので、念のため。
(私が、「桜の木の下伝説」を知ったきっかけは、漫画「羊のうた」でした-苦笑。大本は梶井基次郎サンの作品にあると聞きましたが、ちょっとフォローできていないです)

鈴鹿峠には山賊が住んでいて、人を喰い殺す、
という伝説は、昔からあったようです。鏡岩とかいう、その伝説にまつわる岩も、三重県側の旧街道側にあったと思います。
しかし、たしかその伝説には桜にまつわる部分見あたらなかった。
安吾流の暗喩の表現なのでしょうね。
桜と狂気とは、何かと結びつけられますけど、
両者は、華やかな(というのか「陽性」の)光景・心理状態なのではなくて、
桜花の散り落ちる、あの静けさの中で芽生えるものだという……。

というわけで、桜の森は、もともとは鈴鹿峠に無かったと思われます。

ただ、あれだけの文学作品だし、
でっち上げでもいいから(笑)、
「桜の森の満開の下」ゆかりの桜を探しだし、宣伝してみたいな、とも考えたわけですよ、
「日本まんなか共和国 勝手に観光大使」としては(爆)
というわけで、来週末鈴鹿峠を散歩してみます。
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テーマ:滋賀県情報 - ジャンル:地域情報

この記事に対するコメント

鈴鹿峠には問題の「桜の森」がなかったというのは、残念な話です。

ところで小生は、坂口安吾は昨年末に一気読みで「満開の桜の森の下」と「堕落論」を読みました。それまで一切接したことのない作家でした。
前者は素直に通読できましたが、作家の言いたかったことは何か、小生には不如意でした。後者にいたってはその時代背景やら解説本がなければ分からないのではと、読み解く力不足を思いました。
さらにこの作家の思想とリバタリアニズム(まあこの思想自体も小生はとばくちくらいしか知らないのですが)の結びつきは浮かびませんでした。

まあ、坂口安吾を研究対象としたことのある外人の相談に乗るべく、付け焼刃的に読んだだけでした。何がしか貴殿のコメントがいただければ幸いです。
鈴鹿峠にはこの春も行ってみようかと思っています。
【2008/04/19 17:19】 URL | 迎 秀昌 #- [ 編集]

イノチシラズにも安吾を論じる(爆)
こんにちは。
安吾のことを書くのは怖いんですよね(爆)団塊世代の方がかなり思い入れももって読んでおられるので、半可通なことをいうと……かなりまずい状況になります。
「桜の森の満開の下」は、言いたいことを意図的に抑制している作品だと私は思っています。私も彼特有の家庭の匂いへの恐怖を、ようやく読みとれるだけです。
「堕落論」は、ひょっとすると、「続堕落論」を先に読む方がわかりやすいのでないでしょうか。
私も、堕落論を1990年代後半の日本、という限られた時代雰囲気に沿わせて読んだだけで、書かれた時代には、世の中へどう受け入れられていたかを想像できません。
そして1990年代後半に読んだからこそ、リバタリアン思想に私の中で結びついただけだと思っています。
何から堕落しようと、呼びかけているか、を読み解けば、私の言わんとすることをわかっていただけると思うのですが(苦笑)
イエ制度に伴う倫理観、忠恕克己……に象徴されるような修身的な道徳律から、「どうせもとから守れてなかっただろう、だったら”堕落している”と認めてしまいなよ」といったんは悪魔のように囁き(爆)
「守られない道徳律には、共通の欠陥が道徳律にあるに違いない」と疑いの目を向けています。
そして、結論に「正しく堕ちる」ことへ救いを求めるわけです。人間の本性に立ち戻って、これに即した倫理を再発見する必要があるのだ、と。
リバタリアン思想の根幹に、自生的秩序への信仰があります。人それぞれが「合理的に」(あくまで主観としてですけど)判断した結果、人の行動に一定の秩序が発生する、という考え方で、「人間の本性」と安吾が表現したものと、かなり近いものを感じたものです。
【2008/04/24 01:38】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]


デルタさん、コメント有難うございます。

団塊の世代よりちょっとだけ老齢の小生にしては、坂口安吾がそんなに人気があったとは知りませんでした。太宰治にもまったく接することはありませんでした。

例えば、会社と労働の仕組みの流れを見るとき、後者について、大雑把には集団的な扱いの難しくなって、個人個別の合意が多くなっているとみてよいと思います。
その際、労働者保護の最低限の法規なり、労使交渉の新しい手続きなりを作ることにならざるを得ないし、そうすべきなのかもしれない気がします。

家族については、それがどんな流れだったのか、道徳がその基盤にあって、それがどう変化したのか、変わらなかったのか、そんなこととも坂口安吾がつながっているとすれば、もう少し読んでみようかとも思いました。

先の労働の方についてみれば、絶対多数の幸福、社会保険をテクニックとしているとも取れる福祉国家あるいはリベラリズム、そしてリバータリアニズムといった政治哲学の流れがあると教科書にありました。

振り返ると、興味の赴くまま三島由紀夫や海外作家などを読み散らすだけで、何度か読み直す経験もなく、工場勤務の残業の日々の中で過ぎてしまった。
そのときもし同時並行して、意味のある作品群が小生の目に触れることなくあったのかもしれないと思うわけです。

最近は友人と馬鹿げた時局放談でうだをあげ、挙句に月下美人という高尚なものから程遠いカラオケで憂さ晴らしをすることがあります。歌唱力のある友人たちは、それでも演歌や懐メロを酔いしれて歌います。
高音が出ない(ということは下手な歌唱力を隠せない)小生としては、最近のカラオケでは友人たちの知らない歌が容易にタッチパネルで選曲できるのにきがついた。
そこで井上陽水、松山千春、小田和正、杉田二郎など、小生らが演歌などにかまけているころ同時代に活躍していたのだと知りました。
画一的に誰でも知っている流行歌を歌う時代から、個別にそれほど巷間で流行らなかった歌でも楽しめる時代に技術進歩のせいでなったといえば、おおげさなのでしょうね。
因みに上の歌手で言えば「傘がない」、「兵士の詩」などなど。
【2008/04/26 16:02】 URL | 迎 秀昌 #- [ 編集]


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