ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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異なる他者とつくる社会
晩飯を食べに行ったラーメン屋さんで、あんかけ焼きそばを待ちながら、朝日新聞を読んでいたら、面白い記事を見つけた。
竹井隆人サンという在野の政治学者による「KYのすすめ」。
いわゆる「AKY(えて気をまない)」のことかな、と思ったら、
直接民主制を具体的にするために、分譲マンションの管理組合の運営を例に取っての説明だった。

彼は、いわゆる「コミュニティの復権」との訴えを、非難する。コミュニティーとは、気のあった(利害のあった)人間の集合体を意味する(日本のみの特殊事情かもしれないけれど-デルタ注)。これでは、内部で異論を述べられない状況が出来上ってしまう。「『KY(空気をよめないもの)として『粛正』されてしまうことになる」僕が考えるに、在日外国人(特に中南米やアジア系のひとびと)や貧困にある人々あるいは、公害被害者は、こうして”コミュニティーの中に内包され、かつ「いないこと」されている。

かわって、彼が提案する「公共」の担い手は、マンションの管理組合をモデルにした「私的政府」である。
僕も川崎で住んでいたころに5年間分譲マンションに住んでいたので、管理組合を十分過ぎるくらい思い出せる。この場合の「政府」はかなり”議会”に近い意味を持つ。管理費(ゼイキンと読んでください)を集めることすら、管理会社(行政請負会社)へ委託している。いや、かなりの部分管理会社に依存してしまうので、投票は自ずと予算承認と、管理会社の選任とが主な議題になるのだけど、それはともかく、「区分所有者がもれなく集まって」限りなく「1世帯1票」の原則に則って投票を行うことになる。
管理組合の執行部に入った経験のある方ならお分かりだろうけど、ともかく投票しないと、何事も動かないのだ(予算の承認、会長などの執行部選任には、2/3の定足数が必要になる)。新築のマンションならばなおさらで、マンションのルールを1から作ることになる。どのようなペットまで許すか、駐輪場の運営(僕の住んでいたところでは難題だった。スペースが1世帯あたり2台程度しかなかったのだ)そんなところから合意を作っていくことになる。
しかし、楽しかったのも事実。いまだに思い出す楽しい思い出は、マンションの建物内にある2m四方の花壇(上が吹き抜け、北と西から日が差し込む)に何を植えるかと議論したこととか……選んだ植物が悉く枯れてしまい、結局観葉植物を植えたのだが、その過程が凄く楽しく、また、枯れかけの植裁に肥料をやったりもして(あまりに枯れるので、管理組合に任せてられない、ということになったのだ-爆)。

僕の住んでいたマンションには、偶然にも在日外国人のひとはいなかったけれど、別に移り住んでこられることを防ぐ手だてもない。極端な話、お金さえ用立てできるならば、宇宙人だって入居できうる……。職業もさまざまで自営の建設業者さん(8時から日暮れまでの勤務)から、空港勤務の整備士さん(夜勤主体)までおられたものだ。これらの合意形成を、偶然同じマンションに住むことになった多様な人たち同士で行っていくことになる。

「社会をつくる自由」と、この管理組合の営みの状態を、竹井サンは表現する。
他人が、自分と同じでないことを前提にして、それでも構成員がもれなく参加できるシステム……だからこそ、そこで決められることには必然的に大きな制約が出てくる。
この、政治に対するクールな整理、竹井サンってなかなか理性的な立論をされているので、僕も応援したくなる。大体にして、「在野の政治学者(本職は、政府系金融機関勤務)」というあたりが、生き方としてかっこいいでないか!

管理組合に比べて、今ある”政府”がなんと教条的なのだろうか、
国旗国歌をはじめ、人間の定義(民法の300日規定)、「国益の確保」(=国内産業の振興)……。
これらは、マンションの管理組合のありようが示す、「もれなく参加する」ことを原則とする場合の、合意できうる範囲の限界を明かに越えている。

機能・権限に関して今国家に要求されている内容は、「国家かくあるべし」という中世以来のドグマに支配された、遺制でしかない。
思いだしてほしい。これらを政府の仕事と定義した中世の社会は、今とは、国家がおよぶ範囲が異なるのだ。まさに「仲良し集団」としてのコミュニティーが乱立し、それらが自由競争していた時代なのだ。個人にはコミュニティを選ぶ権利があり(逃散など)、「もれなく参加」の原則もなかった。

方法論だけ「民主的」にしても、政府・行政に与える「権限」をそれにふさわしい範囲に制限しない、
そんなイビツで肥大化した政治が、「他者」を否定し、「貧困」を放置し、「ひとが他のあらゆるひとの費えに依存して生きようとする、擬制的な実体」としての政府を作っている、と僕は思うのだ。

1月に、自分でももやもやした状態で書いた、政治の原点にたちもどっての考察「政治は「合意」の積み重ね、のはずなのに」で書きたかったことが、すこし整理できた……だろうか、と思っている。
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テーマ:朝日新聞 - ジャンル:政治・経済

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 某所での、自称新自由主義者さんのご意見を傾聴してて感じたことですが…。  かねてから、フリードマンはじめ内外の政・官・財・学・マスコミの新自由主義「信者」に対しての私の感じていたことを思い起こさせられました。  お金という慣れしたんだ呪物のみを愛で... ふしぶじゑ日記【2008/07/13 16:59】

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