びっくりしましたよ、参りました。 この前、私的なこともあってムシャクシャしていた関係で、荒れた文体、文脈で書いた洞爺湖サミットへの私的な総括「政府がコントロールしようとするから」が、リバタリアンの地球環境に対する考え方の一例として、紹介されたことがわかったのです。 「TypeAの散種的妄言録」さんから、トラックバックまで送っていただいて……冷や汗が止まりませぬ。
陰で冷や汗を出しているだけでは仕方ありませんので、補足していこうと思います。
鍵は、次の4点にあります。 ・契約の自由の範囲に限定を設ける 契約の影響が及ぶ範囲は、当事者どうしまでであり、契約に基づいた行為が外環境に及ぼす影響を低減する義務を負う、との制限を設ける
・過失責任主義 損害を与えた行為に過失があったかどうか、を現在は刑事民事ともに責任の有り無しを判断する基準にしている。しかし、絶対的で不可逆な損害が生じる場合には、過失がなくても責任が発生する、との考え方が一般となってきている(もともとは4大公害裁判で裁判所が示した見解。最近ではPL法などで立法化されている)。 環境汚染においても、汚染物質を外界へ放出したこと自体の責任を問うことで、はじめて環境を保全できうるようになる。
・共有物に対する権利主張 共有地の悲劇、という現象がある。誰にも属さない共有地の財は、人々により取られ放題になる、という現実……、確かに否定しようがない。 わたしの一つの案を述べる。「共有地の財を寡占しようと企てた場合、および合理的に考え”回復困難な状況にまで荒らそう”としている場合には、共有者が差し止め請求することができる、とする(損害請求までは、区分的な所有者には無理だと思うので……)
・法的な権威の並立 現在、環境ISOの取得・監査に見られるように、必ずしも政府でない機関であっても、私企業の行為の範囲をチェックし認証する能力を持っている場合が多い。それにも関わらず、政府だけが規約の大枠を作る”当事者”であるという前提で話が進んでいる(じつは、USAの連邦政府は、NGO等に諮問していたりするのだが)。 これは、環境問題についての権威を政府が寡占し、政府の社会に対する影響力を保持しようという企てに過ぎない。認証システムの機動性、参加のしやすさを確保し続けるために、本当に政府という組織が必要なのか、”公平に効率的に”運営するい能力が、国民国家の政府にほんとうにあるのか、ということを冷静に検証する必要がある。 テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済
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