ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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会社は誰のものか(岩井克人著 平凡社刊)
理論経済学者 岩井克人さんの著書。「ヒトはモノしか所有できない」との大原則を逸脱しないように論理を展開すると、株主主権論は論理的否定できる、という主張だ。
読んでいると、「株式」てなんだっけ?という疑問に駆られる。会社という「モノ」を所有している(シェアしている)という説明になっているけれど、具体的な裏付けがないことになってしまう。唯一実態を記述するには、抽象的に「事業」というものを所有しているとしか言えそうにないのだが……。
 僕の意見は少し違う。
 依然として会社は株主のモノである、岩井さんが使った人形浄瑠璃の喩え(人形=会社、人形遣いの師匠=会社経営者)でいえば、株主は劇場の所有者としての地位だ。しかし、株主が複数存在する限り、その座付き俳優をいきなり付け替えられないし、劇場の備品を処分できないのは、別に複雑な議論をしなくても自明だろう。
 同時に、株式を公開している、ということも、会社(企業法人)の公共性を担保している筈だ。様々な立場の株主が合議することによって、偏った/または反社会的な利益誘導が牽制されることになる。
 つまり、株主個人が自分の意見を”かならず表明する”ことによって(異端の意見でも排除されることなく合議の対象になる、という担保のもとで)、企業の公共性が保てると思うのだ、楽観的すぎるかな?
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テーマ:経済 - ジャンル:政治・経済

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