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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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死とはひたすら悲しいものなのです
死刑に対する「世論」に、恐怖すら感じているのだ。
なんという「正義感」のごり押しが、事件周辺への想像もないまま、言葉にされ、アタリマエと見なされていることか、と。

論語にいう、
「直を以てか怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」……怨みには、当然な方法で報いよ、と孔子は説いている。
今、死刑に反対している人たちの意見を聞いていると、
人を殺したという「怨み」の原因へ、”直”……応報論的に当然な解決法として死刑を選択せよ、と要求している。そんな世論が世論調査によると80%を越えているのだという。

日本は(”日本民族”を自負する人々は)、自身では意識していないけれど、儒教精神に溢れているのだ、という証拠かもしれない。

私は、身内の問題として、この種の応報論で片づかないところに身内の感情があることを知っている。
世間体的に当然とされる報復がなされても、被害者側の日常は何ら変らない。変らないまま、世間から置き去りにされていく、
そこに絶望を覚えてしまうのだ。

具体的に書こう
前にも書いた通り、サリドマイド被害者が私の身内にいる。その被害者の母親は、薬害エイズの糾弾には当初同調していた。薬害エイズの際の厚生省の次官(だったと思う)がサリドマイドの時の事態収拾に当たった役人さんだったと知り、「厚生省の体質が変っていない」と怒ってもいた。
が、菅直人サンが役人の責任を追及し、被害者に頭を下げたとき-そしてそれをマスコミが賞賛していたとき、その人は、突如マスコミに対して怒りはじめたのだった……豹変という言葉がふさわしかった。
「そんな簡単な儀式で一件落着にしてしまうのか」と。
「キャリアになった人ら、いつ発病するかも分かれへんのやろ」と。
そんな状態で放り出されているのに、世間として解決したという評価をマスコミが勝手に下したのに怒ったのだった。

だから、死刑を推進する人たちが、死刑廃止を唱える人を揶揄していうこの言葉に、私は堂々と応えておく。

「自分の家族や恋人が殺されたからって、加害者に死刑を求めませんよ。たとえ死刑となっても、なんら解決になっていませんからね。死刑にして、臭い物に蓋的に勝手に解決したことにしないでください。そんな考えは身勝手です。
働き手を失い残された家族の、死刑執行後にも延々続くその後の日常を想像したことがありますか?」


(追記)
万一これを読んでいたら、私の両親へ。
親不孝な息子ですみません。
けれど、仇討ちを約束してまで、世間体的な親孝行をするようには、
私は、あなた方の生活態度からは教えてもらっていませんので。
……そうですよね?
そこまで、原理主義的な「孝」の道徳観で私を括ろうとしてませんでしたよね。
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テーマ:死刑 - ジャンル:政治・経済

この記事に対するコメント

デルタさま。

色々と参考にさせていただいています。

失礼します、治外法権×裏道の管理人irumuです。こちらのブログをリンクに追加したいのですがよろしいしょうか??。

では、お返事をお待ちしています。


今回の記事ですが、間違っていないと思います・・・。
日本は犯罪被害者に対してのケアと保護が不十分すぎる
と思いますが、それでいいのかと思うですがどうでしょう。

色々な意味で考えさせらる良い記事でした。

では、また。
【2008/10/29 13:20】 URL | irumu #qOWB8fHs [ 編集]

穏やかな反響でよかった(汗)
火曜日から、ずっと、息を殺して様子を見てたのです。相当覚悟しながらも、対極の意見にTBを送ったりしていた。というわけで、今のこの穏やかさに、ある意味ほっとしているんです。
あえてさらに徴発的なことをいうけれど、死刑は当然、とかいう人たちにとっては、死刑囚が死刑執行になろうが、ならなかろうが、どっちでもよくて、単に、「死刑」という単語に興奮しているだけでないの?(冷笑)

という、コメントすらしないような、死刑推進のひとたちへの徴発はこのぐらいにして。


Irumuさん、
どう参考になさっているか、考えるとコワくなるのですが(冗談です)

今後ともよろしくお願いします。
【2008/10/31 01:22】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]


私は「アホ」で若輩なもので、学術的にはかたれませんが…

この高度医療が確立された今…
私は「早死にの危険は減ったが、長生きの危険が増した…」
と、捉えています。

つまり、死刑が云々というのは「生死」をどう捉えるかではないでしょうか?

殺人事件に限り、その被害者遺族の方に1年間の猶予を与え、生かすか、殺すか決定してもらう…とか、どうですか?
【2008/11/02 15:57】 URL | カラテカ #- [ 編集]

今度のお話のネタのひとつとして
どうも。デルタさんお久しぶりです。
今度のオフのお話のネタのひとつとしてコメントを少々。
私はどっちかというと死刑廃止論ですが、
でも正直なところは意見を決めかねています。
そもそも、この問題は犯罪被害者云々については、
実は私は不勉強故か信用足る調査を知らず困ります。
私が知る限りメディアで
被害者家族の大多数は応報を望んでいるのか?
応報するとしたら死刑が本当に応報感情をみたすのか?
また応報することによって、感情回復ができるのか?
被害者家族とはどこまでさすのか?等
については真正面から議論されたものを見たことがありません。
デルタさんはこういうことについて触れた文献とかはご存知ですか?

この死刑につてはホッブスが「リヴァイアサン」の中で興味深いこといっていたなぁって印象がありますね。うろおぼえですが。



【2008/11/04 21:59】 URL | きなぞう #- [ 編集]

コメント多謝
カラテカさん、きなぞうさん、コメントありがとうございます。

>死刑とは死生観に基づく
的確な切り口だと思いました。死生観は、同じ人ですら時と場合により(あるいは年齢を経るにつれ)、変化していくことだろうと思います。けれど、あるかないか、といえば、各個人に確固たるものがある。
そういう個人の人間観と、公の合意である刑罰とを、どこまでイコールにおいていいか、という問題なのだと思います。
私は、個人的な背景もあって、法を決めるときには、ミニマムの合意にせざるを得ないと思うのですが……。

>被害者家族の大多数は応報を望んでいるのか?
このあたりは、真剣は取材ができていない、と私は感じています。少なくとも本村さんの本以外に見たことがありません。
思うに、遺族にとって犯人が自分と接点のある人だという場合が、現実の事件では多い。だから事態のデリケートさに、取材なり調査なりをすることを躊躇うのではないかと思います。
その意味で、関係者の仲間うちで、”紛争”を解決するという昔ながらの智慧(言い換えれば「中世的な解決手法」)は、合理性のある方法かもしれません。
国家;というより政府は、社会全体におよぶ普遍的な「ルール」を求めるでしょうから、その方法を否定するでしょうね。私は「リヴァイアサン」を原典で読んでませんので、トンチンカンなことを書いているかもしれませんけれど。
が、政府が「凶暴」に見えるのは、このような個別的な解決へ、問答無用に介入することに理由があるのかもしれません。
【2008/11/12 00:06】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]

心的解決の問題抜きに、死刑廃止は出来ないのでは
デルタさん、初めまして。こんにちは。
拙記事にトラックバックくださりましてありがとうございます。

確かに応報刑というのは、被害者の現実的解決には何の役にも立たないでしょう。
あくまでも心的解決の一つでしかありません。「けじめ」をつけるようなものです。

しかし、この心的解決を軽く見てはいけないと思います。

デルタさんは、トラックバックしていただいた拙記事のひとつ前の記事「日本人の刑罰観~死刑存置派がマジョリティな理由とは~」をお読み頂いてますでしょうか。

この中で岸田秀が、次のように指摘しています。

>日本人には神の義に訴えて怨念を晴らすというルートがないから、化けて出る以外に方法がない。つまり日本では、被害者に罰する権利があるんだな。
>法が裁くのではなくて、被害者に本来の権利があって、役人は被害者の代理人にすぎないんですよ。


この辺りの意識が、応報刑を支持する背景になっているような気がします。
こうした意識を、野蛮だとか前近代的だとか一言で片付けることは可能です。

ですが、こうした心的解決を否定したとしても、実際その意識の元で行動している人にとっては、自分の社会基盤を崩されるような不安を抱くのではないでしょうか?

死刑存置派が多数を占めるのも、そうした不安からきているような気がしてなりません。

あとやっぱり、日本が、「迷惑をかけない/相手の嫌がることをしない」を規範として安定している社会であることも一因ではないかと。
周りに迷惑をかけたら、お詫びすることや罰を受けて当然だとする認識も応報刑を支持することにつながるのでしょう。
【2009/02/07 12:24】 URL | 一知半解 #f2BEFQoE [ 編集]

難しい……
一知半解さん、こんにちは。
いただいたコメントには
非常に多くの論点を含んでまして、
議論に私の能力を超える部分がありますので、
ひとまず、論点をメモ書的に書き、お答えとさせてください。

私もゆっくり考えながら、ひとつひとつを論じていきたいので、
できましたら、長いおつきあいのほどを

(1)習俗・道徳律と法との関係
一般的にいって、法律は、習俗や規範・道徳律と切り離して運用する必要があると私は考えます。
 理由:(1A)日本政府が治める”日本という空間”が、未来永劫同じ習俗・道徳律を持った人間集団で占められる保障がないので(もしくは、習俗や道徳律にリンクした法律を運用する場合には、ちょうど「脳死」の議論の時のように、世の中の常識の変化に合わせて法律を変更していくことを担保しないといけない)
    (1B)特に刑法は、法による支配を徹底する立場で作っている。つまり「他の要因に左右されてはいけない」という法理が存在する(その点、民法は、最終的に”世の中の常識に委ねる”という考えによっていて異なる)

(2)日本における罪と罰との観念(史的変遷も含め)
 平安からだいたい室町の中頃まででしょうか、ご指摘どおり「怨霊」を媒介にした罪の観念が働いていたようすです。
しかし、例えば幕末に「天誅(天帝に代わり誅する)」という表現が使われだしたのが象徴的なように、正しい(あるべき)秩序体系への「信仰」(渇望といっていいかも知れません、いい表現が浮かばないのですが)が生じはじめました。
つまり、キリスト教の神に相当するものとして、日本の近世以降では、「お上(天地に恥じない法秩序)」からのズレを罪と呼ぶようになったと、私は考えています。明治以降、この流れから、宗教界での革新は疑似一神教化が進みましたし、現在でもこの観念が続いていると思うのですが、いかがでしょうか。

いいかえれば、キリスト教社会と同様、現代日本の社会にも「Idealなもの」が、罪・罰の決定に第三者的に(そして動かしがたいものとして)介在しているので、お互いそう遠い社会像でないと、私は考えるのです。

(3)罰を構成する要素
一知半解さんは、刑罰の一側面;法秩序の維持に重きを置いて考えておられると感じました(日本で死刑を肯定する方の中では、割に稀少な論点だと感じてます)。
 
不当行為の解決には、少なくとも3つの側面があると、私は整理しています。
(A)応報的処置 (加害者・被害者間の相対的な公平性確保)
(B)法秩序の維持(世間的な「けじめ」)
(C)原状回復義務(民事的な賠償責任)

これらの重み付け、優先性は、立場によって違うことを私は理解しております。
その上で、私のリバタリアンとしての立場からいうと、
(C)が何をおいても最優先であり、(A)は原状回復を達することができない場合の補助手段、そしてしかるのち、(B)の段階に移るのが相当と考えるのです。
というのは、すべての犯罪には被害者がいて、加害者から害=不利益を被ったからこそ、”被害者”であるわけですから、加害者へ賠償を求めることは、当然認められるべき行為だからです。
その原状回復義務(死刑の場合は、を果たさないうちに、(B)の手段として加害者を殺していいのか、という問題意識が、私にはあるのです。

(4)被害者が権利主体か
 >つまり日本では、被害者に罰する権利があるんだな
原状のヤマト族(世間でいう”日本民族”)の主たる宗教観念から、この結論を導きだせる理由が、私にはしっくり来ません。

日本的な仏教にも「地獄での報い」を主張する部分がありますし、「天網恢々疎にして漏らさず」なんて言いまわしもありますし。
ただ、私たちもせっかちですから(爆)、あの世まで「報い」を待つことができず、まさに「天誅」の一変形として、被害者の名を使うだけではないかと考えます。
【2009/02/11 05:31】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]

たしかに難しい問題ですね
デルタさん、こんばんは。ご丁寧な回答ありがとうございます。

>一般的にいって、法律は、習俗や規範・道徳律と切り離して運用する必要があると私は考えます。

程度にもよるのではないでしょうか?
余りに合致していると戒律のようになり窮屈になるし、かといって、離れすぎていると法律そのものが、信頼されなくなり遵守されなくなってしまうような気がします。

>例えば幕末に「天誅(天帝に代わり誅する)」という表現が使われだしたのが象徴的なように、正しい(あるべき)秩序体系への「信仰」(渇望といっていいかも知れません、いい表現が浮かばないのですが)が生じはじめました。

これは尊皇攘夷思想と関係があるのではないでしょうか?
ちょっと話がずれますが、イザヤ・ベンダサンが「日本人と中国人」の中で、尊皇攘夷というのは、実は明国の亡命者・朱舜水がもたらした勤皇思想が元ダネの輸入品に過ぎないと指摘していたことを思い出しました。

>キリスト教の神に相当するものとして、日本の近世以降では、「お上(天地に恥じない法秩序)」からのズレを罪と呼ぶようになった

神の戒律を破る(破戒)→罪の発生→神の懲罰という流れがキリスト教などの契約神の特徴だと思います。
契約したにも関わらず、それに背いたので罰が与えられるという形です。
これが彼らの道徳基準であるわけです。

それに対し、人に迷惑をかけるような恥ずかしいことはしないというのが我々の道徳基準なのでしょう(R・ベネディクトが「恥の文化」と呼んでいますね)。

ここには人間と契約を結ぶという神、もしくは懲罰するような神が一切出てきません。
デルタさんは、お上がキリスト教に相当すると考えていらっしゃるようですが、私は、この「お上」というのはキリスト教の神ではなく、むしろ「世間(人間界)」を指しているように思います。

契約を結んでいないのですから、迷惑だと思わなければ、平気で道徳や規範を破る連中が出てきてもおかしくありません。
日本人が、個人主義を嫌う理由はこれだと思います。
全体の和を乱す利己主義にしか見えないのです(国旗・国歌問題で左翼の主張が受け入れられないのもこのせいでしょう)。

私は「Idealなもの」の存在は否定しませんが、それはタテマエにすぎず、日本人の実際の行動原理は、集団主義に則っており、それを崩そうとするものは、たとえ「Idealなもの」でも排除してしまうのではないかと考えてます。

>(C)が何をおいても最優先であり、(A)は原状回復を達することができない場合の補助手段、そしてしかるのち、(B)の段階に移るのが相当と考えるのです。

確かにそれが理想だと私も思います。
ただ、オーストリアのケーブルカー火災事故↓の対応をみてもわかるとおり、日本人というのは、救済内容よりも、まずなによりも加害者の「謝罪」を求めます。

・ケーブルカー火災から7年 民事訴訟 来春に和解も
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/071110/erp0711101619002-n1.htm

(Wiki)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BC%E7%81%AB%E7%81%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

「謝罪が抜きの十分な救済」より、「不十分な救済でも誠意ある謝罪」を求める傾向が非常に強いと思います。
つまり、極論してしまえば、ゴメンナサイと言うこと(謝罪の形)が重要視され、謝罪内容はどうでもいいのです。
これについては、拙ブログの過去記事↓でイザヤ・ベンダサンの主張を引用していますのでご参照ください。

・「私の責任=責任解除」論②「ごめんなさい」と言わない奴が叩かれる日本社会
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-46.html

この性向が、被害者の救済をおろそかにする一因ではないでしょうか?
また、この性向が、反省を見せない加害者など、死刑にしてしまえという論理につながっているような気がします。
こうした性向に囚われている以上、死刑廃止は難しいのではないでしょうか?

>日本的な仏教にも「地獄での報い」を主張する部分がありますし、「天網恢々疎にして漏らさず」なんて言いまわしもありますし。

確かに言葉ではありますが、その内容を信用しているでしょうか?
神との契約を結んだものなら、その契約を信じることができるでしょうが、我々はそうした契約を結んでいないのです。

神の罰を期待できない日本人に残された手段は、結局のところ、怨みを晴らす応報刑という手段が理に適ってしまうのではないか…と思います。

もちろん日本人の意識が変化していけば、死刑制度も廃止されるようなことになるかもしれませんし、それはそれで反対ではありません。

ただ、現状においては、死刑廃止の主張は、社会基盤を崩す行為としか受け取られていないのではないでしょうか。
私自身も、そうした不安がある故に、死刑存置派なのですが。
【2009/02/12 21:10】 URL | 一知半解 #f2BEFQoE [ 編集]


一知半解さん、こんにちは。

前提として、お聞きしておきたいのですが、
習俗や規範・道徳律が、複数存在する国では、
がいっておられる話は、具体的にどのような形へ収束していくのでしょうか。
例えば(あえてUSAの名を出しませんが)、スペインの社会のありよう、あるいは、もっと複雑な意味合いを持つメキシコなどの中南米社会、あるいはカトリックの影響がやたら強いのに、文化圏的にはUSの影響下にあるフィリピン……
日本にしても、規範などは、時代によって流転していますし、
まして、人口の数%オーダーで異民族が入り始めているコミュニティにあって、
今しきりにしようとされている、日本と西欧との宗教観の違いを、法律の根拠にする試みに、大きな疑問を持つのです。

このような社会状況にあっては、”純粋な”宗教観はなくなりつつあるでしょう。非常に伝統主義的な天台宗であってさえ、私が信徒になった20年前から比べると、宗祖の位置づけとかが微妙に変化しはじめていますし……。

だからこそ、常に伝統とは何か、伝統と今の社会状況とを見比べ、そして民法典や刑法典にどう反映させるのかを論じねばならないはずです。
(ましてや、刑法典は、本来社会のありようにあまり左右されないよう、要求されています。ということは、社会がどうかわろうと、正当と見なされるところまで、撤退させる必要があります)

その前提で、以下私からのお答えです。

>ここには人間と契約を結ぶという神、もしくは懲罰するような神が一切出てきません。
デルタさんは、お上がキリスト教に相当すると考えていらっしゃるようですが、私は、この「お上」というのはキリスト教の神ではなく、むしろ「世間(人間界)」を指しているように思います。

現世での罰と来世での罰とを、混同されていませんか。
来世での罰という意味では、日本にも民間信仰として、やはり天帝(あるいは天道)信仰があり、来世での罰を約束されていました。個々の契約とはいえないでしょうけれど、「システム」への信頼があったわけです。例えば庚申待ちあたりの習わしがその証拠です(正確な意味での仏教にはそのような教えがないのですが、正確な仏教の教義を”一般にどのような世界観を持たれていたかと論じる時に流用しても、意味がないですよね)
一方、西洋でも、神の名においてではあっても、現世で罰を下すシステムが、少なくともルネサンス期まではあったわけです。
 こんな状況にあって、日本と西欧との世界観を違うと見なし、まして死刑廃止に反対する論拠にはできないはずです。
仏教こそ、「懺悔(さんげ)によって罪を赦される」という教義を強く推し進めている宗教なのです。

民事解決を刑事罰に優先させることを、理想だて認めて頂けたのは、うれしいです。
しかし、日本でまず「謝罪」を求める、という仮説は認める訳にいきません。
もうお忘れかもしれませんが、名古屋空港(今の県立空港の方)で中華民航機が事故を起こし、日本人を含めて多大な死者を出したことがありました(1985年のはず)。
このときは、社長を含め謝罪してましたし、補償交渉もかなり迅速に始まったと記憶しています。が、結局日本人乗客遺族は、台湾の人たちの生涯賃金を基準にした補償提示額を不当として、上積みを求めて民事訴訟と起こし、ずいぶんこじれました。
この民事訴訟を、不当とはいいたくないですが、結果として、お金の上積みを条件として条件闘争をし、命の価値は日本人の方が高いのだ、と主張していたわけです。

また仮に、おっしゃるように、
>「不十分な救済でも誠意ある謝罪」を求める傾向が非常に強いと思います。
という傾向が本当にあるのなら、
被害者救済に背を向けている世論を矯正する意味でも、
政府が、民事救済を優先という原則を打ち立てることは、大きな意義を持つはずです。

被害者は、「世論」を納得させるためにいるのでは、ないのですから。
【2009/02/16 22:40】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]


デルタさん、こんばんは。
丁寧なレスありがとうございます。
私も、なるべくわかりやすいよう主張しているつもりですが、かみ合わない点や不明な点などあるかもしれません。そうした点については、疑問・反論をいただければ幸いです。

>習俗や規範・道徳律が、複数存在する国では、いっておられる話は、具体的にどのような形へ収束していくのでしょうか。

これは非常に難しい質問ですので、世界の宗教・風俗等に詳しくない私には、この場で回答する能力がありません。ご勘弁願います。

>日本にしても、規範などは、時代によって流転していますし

確かに合理的な考えが浸透してくるにつれ、不合理な規範などは徐々に廃れているとは思いますが、根本的な規範(他人に迷惑を掛けない)とか、行動原理(集団主義)は全く変化していないと思います。

日本というのは、根本的な規範・行動原理に反する部分については、たとえ「Idealなもの」であろうと受け入れないのです。

>日本と西欧との宗教観の違いを、法律の根拠にする試みに、大きな疑問を持つのです。

そうですかねぇ?
そもそも法というのは、その国の宗教・規範・しきたりを反映したものであるべきだと思うのです。

イスラム法なぞは、異教徒から見れば野蛮ですが、イスラム教徒から見れば、宗教・規範に則っているが故に、その法が現在でも生きているわけでしょう。

そもそも、日本の法体系は、明治時代に急遽西欧の物まねをして取り入れた経緯があり、日本の伝統的規範とそぐわない部分があると岸田秀らが指摘しています。この辺りについては、拙ブログの記事↓を参考にしていただければと思います。

・「法」と「伝統的規範」との乖離
http://yamamoto8hei.blog37.fc2.com/blog-entry-173.html

前のコメントでも言いましたが、余りにも乖離していると法そのものが信頼されなくなり、当然のように破られるようになってしまいます。

確か、光市の母子殺人事件の被害者本村さんは、犯人が出てきたら自らの手で殺すといっていたはずです。
つまり、法が死刑にしなければ、犯罪に問われようとも、法を破ると宣言しているわけで、こうした意見は極論かも知れませんが、法の信頼性を揺るがすことにもなりかねません。

理想を取り入れるのもいいですが、そのために法そのものの信頼性が損なわれてしまったら、何の意味があるのでしょうか?
死刑廃止の理想を取り入れたが為に、日本人の法に対する信頼性が揺らぐような事態になりかねないかも…と私は懸念しているのです。

>来世での罰という意味

日本でも、「地獄に落ちる」という言い方をしますが、これはあくまでも自らを戒める言葉でしょう。だから、迷惑を掛ける行為をするな、という意味での。
つまり、日本の場合は、「迷信の類」といってもよいかも知れない。

それに対して、西洋のそれは、契約神であるところが全く違います。
自ら絶対神と「契約」を結ぶという”自発的・意識的”行為が基にある。
契約を受け入れ、神の戒律に背いたら、罰を与えられて当然という「意識」があるわけです。

来世での罰の意味でも、この意識の有る無し一つをとっても全然違うのではないでしょうか。
こうした背景を軽んじて、死刑廃止を求めるのは、大いに問題があると思うのです。

>日本でまず「謝罪」を求める、という仮説は認める訳にいきません。

しかしながら、この仮説は事実ではありませんか?
日本人が、謝罪の「形」を重視するのは認めざるを得ないと思います。
謝罪会見時の「形」が十分でなかったが為に、つぶれた企業はたくさんあるはずです。

死刑の問題に関して言えば、デルタさんは、謝罪をしない死刑囚をどう思われますか?
やっぱりそれでも死刑は反対でしょうか?

死刑存置派がマジョリティなのは、こうした謝罪しない死刑囚の存在も大いに影響しています。この状況を鑑みても、日本人がまず「謝罪」を求めるという仮説は、妥当性があると私は判断しているのですけど。

それになぜ謝罪に拘るのか、といえば、日本人には、神の罰を期待することができないからでしょう。そうなると「怨み」を解くのは、「応報刑」若しくは「謝罪」しか手段がないですから。

>被害者救済に背を向けている世論を矯正する意味でも、政府が、民事救済を優先という原則を打ち立てることは、大きな意義を持つはずです。

被害者救済に限って言えば、死刑制度とは関係なく対策を講じても構わないはずです。前述したように、被害者を物質的に救済しても、「怨み」は消えない場合が多いのですから。

被害者救済を優先するのは、賛成いたしますが、死刑廃止で「被害者救済軽視の世論」を矯正できるかと言われれば、関連が無いし無理ではないかと思います。
【2009/02/19 00:31】 URL | 一知半解 #f2BEFQoE [ 編集]


一知半解さん、こんにちは
正直に書くと、
「規範」から「法律」が乖離していくのには、私も疑問を持っております。
なんというのでしょうか、
「法権力(法律を運用することで生じる”強制力”)」が、我々の常識から外れ、暴走してしまうのでは」、という恐怖です。
11/12のコメントで
>政府が「凶暴」に見えるのは、このような個別的な解決へ、問答無用に介入することに理由があるのかもしれません。
と書いたのは、まさにその恐怖を表しています。(ホッブスの「リバイアサン」が述べているニュアンスとは違うかもしれないけれど、この点で政府は確かに「凶暴」に振る舞うときがあると思う)

現時点で私の言えることは、
民法と刑法とを比較した場合に、刑法は「比較的」規範と離れていても問題になりにくい
……というのが1点目
私の住んでいるあたりのように、人口の5%に近いほどに、他民族(他文化)の人が混住している社会では、「伝統規範」といっても、意味を成さないだろうな、という現実的な悩みが二点目。
二点目について、少し補足すると、
>>習俗や規範・道徳律が、複数存在する国では、いっておられる話は、具体的にどのような形へ収束していくのでしょうか。

>これは非常に難しい質問ですので、世界の宗教・風俗等に詳しくない私には、この場で回答する能力がありません。ご勘弁願います。

と書いておられますが、実のところ私にしても、在日ブラジル人・ペルー人・フィリピン人・韓国(朝鮮)人……の人たちが、どういう規範意識を持っているかを、理解できてませんし、今後も、正確に理解することは無理だろうと思ってます。増してそれが、社会の共有概念になるなんてことは、期待できないだろうと。
となると、「”ある特定の規範”を法の原点にしていいの?」
と考えるわけです。
より儒教の影響が強い人たちが納得するためには(そして「遵法意識を高めてもらうためには」)、
尊属殺人規定を復活させないといけないかも知れません。
とすると、今度は、たとえばブラジル人・ペルー人のひとたちにとっては、不合理、いや「不可解な怖ろしい規定」と感じるかもしれません。
……このように、落しどころを探っていくと、結局、法の規定が、極小化していくのでは、と考えるわけです。

日本民族の規範を論拠にして、日本民族が死刑を肯定する人が多数派になっている、ということは理解できました。

しかし、このことは裏返しにいうと、
そのような”在来の伝統規範を論拠にした法律”は、日本国内にいる外国人にとっては従いたくなるインセンティブが不足している、とも言えることになります。

現実として、混住している社会にあって、
刑罰にこの論拠を持ち出すのは、危険だと考えています。
この点、いかがでしょう。


>死刑の問題に関して言えば、デルタさんは、謝罪をしない死刑囚をどう思われますか?
……(しばし黙考)
けれどそれを根拠に量刑すると、「法のもとの平等」が崩れる……。
極端な例ですが、遺族が「あいつが死んでくれて、せいせいしました」と証言した場合に、殺人罪を減免する、という論拠にもなるし、
もっといえば、まったく身よりのない人を殺した殺人犯には、「謝罪する」機会すらないわけで、
「謝罪」(それをめぐる遺族感情)を、考慮すれば、犯罪者を平等に裁くことができなくなりませんか?
………………
一知半解さんが、最終的に行き着かれたのは、
「怨み」=被害者感情ですね。被害者感情を叶えることが、「正義」あるいは「法への信頼」
を確保するための、必要条件(必要十分条件ではないにしても)である、
とまとめてよろしいですか。

だとすると。
いや……、参りました。
自分の冷血さに。
「正義の為に死んでもらう」にしても、「諸事情を一切無視して、死刑を無くす」にしても
どちらに転んでも、殺人への罰は、何らかの「冷血な」判断を伴うわけですね。

確かに、今の時点で、そこまで私は冷血に徹することができないのも事実です。

死刑存置派の方たちの「現実的な論拠」へ、どう応答していくかは、今後の宿題です。
【2009/02/19 23:41】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]

蛇足な独語
まだまだ、私も「迷い」が多いわ。

天台宗の宗祖、最澄上人の「遺戒」をここに書き留めておこう。。。

「怨みを以て怨み報ぜば、怨み尽きず
徳を以て怨み報ぜば、怨み即ち尽く」

なんでも、老荘思想にも同じ言葉があるのだそうで、
最澄サンは、それを引き写したのかな(苦笑)

私は、まだまだ悟れない。。。
【2009/02/19 23:58】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]


デルタさん、こんにちは。

今まで、死刑廃止派の方々と意見を交わしてみて、「出羽の守」的な意見や、一方的に感情論と決め付けられることが多かったので、デルタさんのような意見を持つ方に出会えてよかったです。

今回、デルタさんと議論を交わしてみて、自分でもまだまだ考えるべきことがあるな、と感じました。

私はどうも保守的なものですから、どうしても現状維持になりがちです。
ただ、現状維持すればいいものでもないんですよね。

死刑を巡って侃々諤々議論がされていますが、今回の議論を通じて、それよりも「被害者の救済」という点について、考えるべきではないか…と思った次第です。

お返事ありがとうございました。
【2009/02/21 13:29】 URL | 一知半解 #f2BEFQoE [ 編集]


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