ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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究極の既得権益---日本国籍
日本の社会をすばらしいと、心の底から考えているならば、
そのすばらしさを、遍く人々を分かち合おうとするのが普通だろう。
そのために、本来は国籍取得、あるいは難民申請などに対して、寛大であるほうが自然である。

このところの国籍法への反対意見を見ていると、
日本国籍を享受している人たちが、自分たちの立場、言い換えれば「豊かさ」を、自分たちだけでむさぼるのをアタリマエと考えていて、他者とわかちあう覚悟ができていないことに気付く。
確かに、私たちの「豊かさ」は非常に危ういバランスの上で成り立っている。例えば1割くらいの移民による人口増加で崩壊してしまう可能性もある、そんな危うさを抱えている(もっと体感的にいうと、「崩壊し始めているから、自分の世代はなんとか豊かな内に逃げ切りたい」と考えているのかもしれない。自身も省みてその醜い心を持っているのに気づきドキリとした)
だから、排他的になる。そんな悲しい性を持つのも、またヒトとして自然ではあるが……。


世界の「豊かさ」を均質に、仮にしたとしよう。
そのとき日本の今の「豊かさ」からどの程度撤退しないといけないだろうか、半分、それとも1/3?
経済のグローバル化がすすみ、この種の経済格差を、国内へある程度抱え込むようになってきた。しかし、まだ大部分の”国民”は今なお「豊か」である(旧ソ連のエライサンのような言葉使いだが)
そんな日本へ、「豊かさ」を求めて来ることがなぜ許されないことなのだろうか。ある日本国籍保持者が、自らの責任で、ある子供を我が子と認知し、彼自身の富を分かち合う試みさえをも、なぜ、「偽装」「犯罪」と非難できるのだろう。

戦後60年あまり。
いつしか、日本国籍が富める者の既得権となってしまった。
入出国管理の官吏へ、ゲーティッドシティーのガードマン同様の働きを求めるようになってしまった。

リバタリアンだからこそ、市場原理主義者だからこそ、いいたい。
「豊かさ」を求めアクセスする権利は、何人にも等しくある。
国籍などの見えない壁で、既得権を守ろうとする者は、自由市場の敵である。
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テーマ:国籍法改悪反対! - ジャンル:政治・経済

この記事に対するコメント

いい記事だけど、
僕も似たような視点でモノを考えるので敢えて書くんですが、
かなりの暴論ですよね。

確かに、自由市場の理想にとって国家という枠は障害物でしかない。
でも、生身の人間は脆弱な存在なので、苛烈な自由市場から庇護する装置として国家という枠組みは現段階では必要な存在といえる。

国家は領土と国民と統治権で構成される。
日本には民族国家としてのアイデンティティーがあるので、国民要件として血統主義が採用されている。
なんらDNA鑑定も無しに認知という意思表示だけで血統認定することは、国民が重要な日本国家構成要素である以上、日本国を溶かす要因になりかねないと思います。

今の日本が豊かなのは、日本の先人達が日本国の後裔を思い努力してきた結果という側面が多分にある。そんな日本の先人達の思いにこたえて、今の日本人が日本の豊かさを日本人の中で分かち合うのはまさに当然あってしかるべき既得権。

むしろ、昨今の安易な非正規労働状況こそ先人の思いに応えられていないと僕は考えたい。

外国人も偽装認知によって他国の先人達の努力の果実にタダ乗りするのではなく、自国の末裔のために自国民として努力していくことが、国家という枠組みが厳然として存在し必要とされる現段階ではより公正な競争といえるのではないでしょうか。
【2009/01/03 02:47】 URL | aircheck #- [ 編集]

Re: タイトルなし
aircheckさんこんにちは。

本質は、
>生身の人間は脆弱な存在
だということでしょうか。
政府の数少ない必然性は、そんな生身の個人が最後に駆け込むため、ということには、私も賛成します。

だからこそ、政府の持つ拘束の強制力が人間にとって重大過ぎる意味を持ってしまうのですから。できるだけ解き放たないと、人は実質抵抗できません。
政府の専制よりは、貨幣の専制のほうが逃げる余地があるだけマシ、というのが私の実感なのです。

日本の偉大な先人といわれても、私を含む多くの日本国籍保持者にとっては、やはり他人です。他人の成果にただ乗りという点では、国籍を問わず同じことでしょう。
国籍保持者の子供だからといって、それを占有できる理由は、結局慣習以外に見つかりません。法律というのは(この問題の本来の根幹である、民法の家族についての規定は特に)確かに伝統に基づきますが、一方でその規定自体が、合理性がなければなりません。内縁の妻とか、認知した子供の存在を、倫理的に奨励する気はさらさらないですが、今までの日本社会を振り返って、これもまた広い意味での「家族」の姿でした。また、この「広い意味での家族」の扱いが、本来の家族との間で合理的に説明できないほどの差があっては、正義に悖ります。
人間は脆弱な存在、
だからこそ、どの1個人にとっても正義に反するような抑圧を、せめて「法権力」から受けないよう、気を配らないといけないと考えるのです。

さらにいうと、日本の在来社会での家族の定義は、血統主義でないですよね。養子がこれほど頻繁に行われる……しかも養子縁組が、「家系を絶やさないために」行われる現状からして、血縁主義どころか、家が会社に類する「法人」のように見えます。伝統の観点からすると、むしろ今回の国籍法改正で、日本の在来社会の実態に近づくと考えます。
【2009/01/06 18:55】 URL | デルタ #- [ 編集]

ご返答に感謝
突然の訪問で、さらにぶしつけこの上ない書き込みにもかかわらず、応答いただいたことにまずお礼を述べたいと思います。

ありがとうございます。
ご返答昧読させていただきました。

さて、本題ですが、もう一度議論の本筋を整理してみますと、
デルタさんは、国籍は究極の既得権益で、市場原理主義の立場から打破すべきものとされます。僕も、国籍が既得権益であるという認識ではデルタさんと共通しています。そして打破すべきものと考えるかという点で異なっている。

なぜ僕が打破すべきものではないとかんがえるのかを根本から述べますと、国籍というものは、原則的にはほぼ世界中の人間がそれぞれに持っているものなので、日本人が日本国籍を既得権にしようが、中国人が中国籍を既得権にしようが、アンフェアだとは思われないからです。それぞれの国が自国の国籍の価値を高める努力は過去現在未来を通じて可能な状態にあるので、これは国家間の公正な自由競争といえましょう。いくら既得権といっても、自由競争の果実としてアンフェアなものでなければ、国家の存在というものが現状では脆弱な人間にとって不可欠な存在であるということをギリギリ承認する立場を踏まえると、リバタリアンからみても必ずしも打破すべきものとまではいえないのではないでしょうか?

しかも、外国人に入国の自由は認めない点と、ましてや国籍取得の自由を認めない点は、現在の国際社会の公序の根底を形成している部分です。そうたやすく切り崩していい部分ではありません。ここを崩すと国家の並列という現在の国際秩序は大混乱に陥ると思われます。市場原理主義からすると、そんなもの大混乱に陥ればいいというのであれば話は別ですが、少なくとも僕は、市場原理を貫徹するために国際秩序が大混乱に陥ればいいとは思わない。なぜなら、想像を絶する程の多くの血が流れるかとが予想されるからです。メリットに対してデメリットがあまりにも大きすぎる。

デルタさんは、日本の在来の家族のあり方になぞらえて、現在までの国籍法制の硬直性を批判し、今回の国籍法の改正のありかたに賛意を示されました。僕が思うに、家族は国籍と比べるとはるかに私的空間であって、家族のありかたになぞらえて論ずるのは、正直どうかと。現行の家族法でも誰を養子に取ろうとも原則個人の自由にまかされているくらい家族の形成はプライベート空間として私的自治に解放されているところですから(年長者を養子にとるのは公序に反するので認められませんが)。

ひるがえって日本国籍の有無は、日本国の主権者であるかどうかの問題に直結する日本国の公序を形成する重大事項です。ある心優しき日本人が貧しい国の人間を可哀想に思って、血縁関係もないのに自由に認知して日本国籍を付与していいようなプライベートな問題ではない。外国人を養子にしようが扶養しようが、その人個人の家族形成の問題ですから好きにすればいいんですけど、国籍付与は公序に関わるのでまったく別問題です。

貧しき者が豊かさに自由にアクセスできて何が悪いのか、ということですが、それは現在の国際公序を犯さない限りにおいて、自由にドンドンやって頂いて結構なことなんだと思います。このような他国へのアクセスという側面でも、ルールなき市場原理主義を押し通すと、先程指摘したとおり、多大な血が流れることも招きかねないということを最後に申し添えたいと思います。

表現に礼を失した部分や辛辣な部分もあったかと思いますが、なにとぞご容赦を。



【2009/01/15 02:10】 URL | aircheck #- [ 編集]

国家が何かをできるのでなくて……
礼に失することをいう可能性、というのは、お互いのことですので、
私も万一ありましたら、ご容赦のほどを。

私は、国籍という公的な指標と、利益(豊かさ)という私的な状態とを、結びつけてしまうことに反対しているだけでして、国籍制度を打破することまでは要求しているわけではないことを、まずお断りしておきます。(心情的には、国籍制度がなくなっても構わないとは思ってますが、今回の議論はそこまで進めるつもりもないです)

自分の富(そこには、”暖かな家族的環境”も含まれると考えます)を誰に配分するかは、結局は「その人が、彼/彼女を家族と見なすかどうか」にかかってきます。認知というのは、結局は父親……自分の子かどうかを確認する方法を元来持っていなかった親の、「事実認定」でしかなかったのです。当然、認知する以上は、扶養義務が発生します。親子間の扶養義務が、国家の福祉政策や社会の共助よりはるかに重い責任を伴っていることは、今更確認するまでもないと思います。
まさに、「自由意志」と「責任」とを合わせて飲み込んだオトナな判断の結果なのだし、オトナ(責任能力のある人)の判断・合意事項に、政府が干渉できる余地はないと私は考えます。

国家はあくまで便宜のための、手段にすぎません(文化的なものは、ここでは切り離しますね。文化は、国家の持ち物ではなく民族に付随するものであり、もっと突き詰めると、それぞれの生活体験の総和ですので)。人権の保障という点でいっても、国家が人権を保障している(授権している)のではなく、個々の人間が生来持っている権利を国家が追認している(侵さないと宣誓している)と解釈してしかるべきです。国家が”権利主体”でない以上。

国際関係も、同様に考えるとどうでしょうか。
国際関係について何かを判断する能動的な権利を、国家は元来持ちません。国家自体が何かを考え行動するわけでないからです。となると、他の姿をした権利主体……個人や法人が行う国際的関係を、結局追認するよりない……犯罪が絡む場合にはその犯罪を罰することができるにしても、犯罪抑止のために、正統な権利主体から権利を奪うところまで許されていないと私は考えるのです。
【2009/01/18 23:47】 URL | デルタ #- [ 編集]


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