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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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産業構造を考察する(……知恵熱でそう)
リンク先「代替案」関さんが、農産物貿易を制限する必然性について雑誌に寄稿されたとのことで、その雑誌「現代農業」を図書館で読ませてもらった。
(「WTOの世界的誤謬を正す(下)」
市場原理主義の破綻を国際協調の関税引き上げで乗り越える
                            関 良基)



経済学について、不勉強だったな、とは確かに感じた。
論点がわからなさ過ぎるのだ。
(ところで、農業経営技術の雑誌と見受けられるその雑誌の中で、本当に異色の記事だった。これを喩えるならば、電気学会誌に電機業界の経営分析が載っているような感じ……)
だから、関さんが制限の必然性の理由として挙げられた四点の理由は次の通りなのだけど、ダイレクトには貿易制限の必然性につながる理由を知らない(わからない)のだ。

 (1)環境問題の発生
 (2)工業が収穫逓増産業であるのに対し、農業は収穫逓減産業である
 (3)農産物需要は、工業製品に比べて価格弾力性が低い
 (4)競争の前提条件がそもそも不公正である

しかし、私だって、まったく畑違いだけど商品開発をやっている身。受給バランスや、生産側のコスト弾力性などについては、一家言もある。
だからこのうち(1)(2)には深く考え込んでしまった。じつは、「今の」「日本において」電機業界も同じ問題を持っているのでないかと。

(1)については、組み立て工場を海外移転する際の、隠れた理由;現地当局が大目に見てくれる、あるいは規制のハードルが低い所へ「逃げている」、そんな構造が電機にもある(とりわけ電子部品に顕著かな?)。そんな廃棄物・公害移出の構造があり、実は公正な自由貿易の前提(というのか、Win-Win関係の自由貿易)が成り立っていないのも実像なのだ。
(2)については、今の日本において、電機工業会の製品が、本当に「収穫逓増」の構造になっているか、という疑問だ。
仕事上のことなので詳しいことは勘弁してほしいけれど、家電製品の多くは、もはや大量生産によって固定費用を薄める規模の経済性が働く域で生産していない例があまりに多い。だから電機(とりわけ電子部品業界)の業界再編がすすみ規模の効果を狙ったにもかかわらず、各社ともに苦境にある。それはなぜか。性能点でも、生産規模の点でも、高度化・大量生産化を目指したために、設備負担や歩留まりが低下しているためだ(ということらしい。私のような平社員には推測するよりない部分も多いので、伝聞である)。つまり、電機でも追加投入資源に見合った収穫が得られず、「収穫逓減」の構造になってしまっている。

ただし。その構造は、わりと最近になって出現したものだ。少なくとも25年くらい前までは、「作れば作るほど売れた」わけだし、会社(生産能力)の規模を大きくすれば勝ち、という産業構造だった(という話だ。これも伝聞だけど)
つまり、電機業界の生み出す製品が高度化(生産両極大化に特化、性能に特化……)することで、だんだん「収穫逓増」から「収穫低減」へ移行していったものと考えられる。

農業も同様でないだろうか、と私は考えたのだ。
かつて、江戸時代の初めくらいまで遡れば、農業は明かに収穫逓増の構造を持っていたはずだ。だから金肥による製法革命も広まったのだし、灌漑・新田開発というとてつもない設備投資も盛んに行われた。
しかし、どの時期からか(日本においては)、電機業界で起きた産業構造的な問題が起き、「収穫逓減」の構造になってしまった、と私は推測する。
電機業界で起こったことからの類推を許してもらうならば、
品質(というより「性能」。バラツキを抑えるというより味をよくするという観点での技術開発)を極度に追い続けたこと。たとえば、松阪牛の肥育にビールを飲ませるなんてあたり……いくら品質のためといっても、経済合理性を越えかねない贅沢が、農産物それぞれにないだろうか。

あるいは、明治以降今なお続いている稲作界のドグマ「日本の稲作は作付け面積に対する効率が世界中の農産物で最大なのです!」の裏返しとしてある、灌漑設備などの過剰投資、あるいは手間や農薬の過剰な投入……。
……いうまでもないだろう、どちらも電機業界で起きている、構造的な問題点と同じ質のものだ。


そんな風に考えると、関さんのいわれる通り、「農産物は自由貿易にふさわしくない」と結論するにしても、
今の(日本の)状況ゆえでないだろうか、という考えが浮かぶのだ。
経済合理性を失い、市場原理で動くとバランスが崩壊するほどに「高度化」してしまったゆえの、自壊に対する予防措置、というニュアンス……。
もちろん、それほどに「高度化」しなければいけない(いけなかった)社会的必然性があるのかも知れない。例えば、作付け面積に対する収量を極大化させないと、地球上の人口を養いきれない、といった必然性があるならば、まさに必要悪なのかもしれない。

繰り返すけれど、私は経済学のことがわからない。だから、どちらかというと、経営学的な観点で上で書いたような考察をしてきた。それだけでは不完全だから、農産物の自由貿易に関して、結論の見解はまだ出さないでおく。


その不完全を認識した上で、私から、農業に関係する方たちに、お願いしたいのだ。

いちど、
「なぜ農業は収穫逓減産業になってしまっているのか」
を専門家の目から経営学的に分析してみてはどうだろうか。

言い換えれば、
なぜ日本の農業がこれほどに高コストなレベルで価格硬直化しているのか、とコスト分析をしてみてはどうだろう。

電機業界で、一技術者まで気にしながら仕事をしている、大切な観点なのだから。
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テーマ:経済 - ジャンル:政治・経済

この記事に対するコメント
こんにちは
お玉さんのところから来ました。専門に勉強などしていない浅学の人間ですので、そのへんはご勘弁願います。
日本の農業に関して、自由化を拒む競争力のない体質が温存されているとの認識に興味を持ちます。現代の農業は、昔と違ってさまざまな機械やら農薬やら、カネをつぎ込んで労働力の少なさを補っているのだと考えます。つまり農業はカネのかかる仕事になってしまっているし、かつそれに携わる人間もどんどん減少し続けている。まずその点が、新たな人材や発想を取り入れて業界(?)を活性化していく素地を奪っていると思います。それからもうひとつ、「食べ物」に対する日本人の感覚を問うべきではないかとも思います。いまや野菜は季節を問わず供給されます。言ってみれば工業製品と同じ扱いです。であれば、同じ品質で安く調達できればよいことになります。もともと農業は自然相手の仕事であるのに、そこに人工的な品質基準を求めるのはおかしい。自然に反したことを求めるから、コストに跳ね返る。それでもそのコストを消費者が負担しないような買い手市場が形成されている。それに耐えかねて農業を続けられなくなる人も増える。そういうマイナスの連鎖があったのではないでしょうか。
デルタさんが問われていることの答えにはなっていませんが、今の農業のおかれた状況は決して楽なものではないはずです。産業として考えるにしても、多くの人間が参入しやすい条件を考えることが求められるのではないかと思っています。
【2008/12/12 00:40】 URL | コウト #RpLvvWBk [ 編集]

Re: こんにちは
コウトさん、こんにちは。

旬に反した作物を作る件、工業規格よろしく外寸などの規格を作っている件、
いずれも、私のいう過剰品質の一例として、納得できるところがあります。
農作物に求める品質といえば、栄養素の範囲(とりわけカロリー)と、重量(S,M,L)だけだったはずなのですけど、いつの間にこうなってしまったのか……。
また、旬に反した作物のこと、もっと冷徹に考えていいかもしれませんね。

あくまでも例ですが、12月頃にとれたてのトマトが欲しい場合、
日本国内の温室で作るのか、熱帯域で作って輸送するのか、どちらが石油消費が少ないか、とか。
このあたり、禁断の話題かもしれませんが、マジメに考えたら興味深い結果になるのでないかなと思います。
【2008/12/16 22:51】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]

いまどき禁断のものはないみたいですが
ちょっと視点が異なるんですが、冬にトマトを欲する人と、それを供給する人との間にどういう関係をつくるか、を考えることに興味を持っています。つまり、従来のように需要があれば商品を開発する、という単線の問題ではなくて、欲する側がつくる人にどんなメッセージを伝えるのかを考えたいのです。わたしはこんな理由でこんなものが欲しい、それがなければこんなに困る、だからぜひともつくって欲しい、とかいった具体的なメッセージをつくり手に届けることで、供給する人はその要求に応える動機形成がしやすくなります。見えない相手に対してやみくもにつくって売るのではなく、互いの存在を意識して意思を伝え合うことの重要性を、考えているわけです。そこにあらわれるのは従来の市場原理ではなく、人間と人間の間の交渉であり、血の通った相互作用だと思うのです。さらにそれを、国境を越えた関係にもあてはめることで、国家間の貿易の問題を人間同士の共存の課題に変えていくこともできないだろうか。農産物自由化を考えるなら、産品を欲する人、供給する人、さらにその外延に位置する人々すべてが意思を伝え合える関係を模索すべきではないか、など、簡単に言うだけでは済まないことですが実際に試していけないかと思います。
 話し合うお互いの合意ができれば、温室栽培でも太陽光発電を使うだとか、多種多様な選択を考えられます。個々の人間の意識が交渉での原点になるわけですね。
【2008/12/17 11:53】 URL | コウト #RpLvvWBk [ 編集]

これぞ、市場の可能性
コウトさんこんにちは。
私だけのイメージかもしれませんが、
市場原理は、本来「取引する者同士の信頼関係」を絶対視したもの」だと思っています。市場での取引に文字通り「取引」的な駆け引きが多少あるにしても、性善説に基づかないと、商取引って成り立たないですから。

ですから、純粋な市場原理に立ち戻ることから、
>農産物自由化を考えるなら、産品を欲する人、供給する人、さらにその外延に位置する人々すべてが意思を伝え合える関係
を作ることも可能(いやその方が早道)でないかと、思うのです。

もちろん、高度に情報化・機械化してしまった市場において、「互いに顔の見えない状態」を作ることが困難な面があるのですが、
そのこと自体は、現代社会のすべての局面で生じている普遍的な問題だと思います。(「疎外感」の問題などですね~)
だから、「市場原理」にその原因を求めるのは、本質的な解決につながらないと思っています。
私も、子供のころから、生協活動に親しんでいます。
だから、おっしゃっている方向性に賛成です。
が、どちらかというと、政府や農協というものは、この動きにブレーキを掛ける存在だ、
というのが、私の実感です。
【2008/12/24 20:07】 URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]

信頼原理
デルタさん、お言葉ですが市場に性善説を期待するのはどうなのかと思いますね。もちろん商売に誠実さや信頼関係は必要だと思いますが、それとは別の次元で互いの儲けを最優先とする取引というものが厳として存在すると思います。一番わかりやすいのは兵器産業や銃器取引ですね。銃器は多くの人間を殺傷する道具ですが、それを欲する人々はいくらでもいるし、だからこそ兵器産業は興隆し続けています。多くの需要があるから多くが供給され、またその需要をますます増大させることを目的とした裏取引も行われているでしょう。これを考える限り、単に市場が人間の善なる資質を向上させるために役立っているとは決して思えません。むしろ人の悪なる動機をかきたてるのに利用されていると考えられます。
 そこで、直接取引を行う人々だけでなく、その外延に位置する社会からの働きかけをも考えなければならないと思うわけです。わたしはあの国が憎い、だから強力な兵器を求めている、という顧客に対して、売る側はその動機を考慮することなくカネを受け取って品物を渡すのがこれまでの商売です。それはある意味、市場があるから商売が問題なく成り立っている、ということですね。人の道徳感や倫理はまったく度外視されています。しかし、市場でおこなわれるその種の危険な取引を、この世界の住人たちは何のためらいもなく黙認していていいのでしょうか?
 血の通った相互作用、と書きました。そこには、互いを大切にしようとする意思や決意があって欲しいのです。そういう心は、ただ市場を黙認するだけでは生まれないと思っています。人間のつくる社会をどうしたらもっと心の通った、生き生きとしたものにしていけるのか、それを考えるがゆえに、たとえば人の暮らしの根本にある食の営みも大事にしなければならないのです。
 顔の見える関係、と言いますね。嘘の写真を使って産地を偽った業者さんがいましたが、顔が見えれば心が通うわけでもないように思います。互いの関係を強く、やわらかに形作っていくにはどうすればいいか、それが今、日本社会の中でも一番難しい課題だと思えます。
 推敲していませんので書きなぐりですみません。
【2008/12/25 20:37】 URL | コウト #RpLvvWBk [ 編集]

Re: 信頼原理
コウトさん、コメントりがとうございます。

世間的には皆さんは、
市場の関係者に、この種の倫理観がない人が溢れていると感じてはるのでしょうか。私が性善説過ぎる、ということでしたら、確かに否定することできませんが(汗)
人を騙す、騙さない、は市場を含めた社会のシステムがどうであろうと、一定割合で起こりうる罪だと認識しています。それらの逸脱行為に対しては、何らかの罰を加えればいいだけのことです。これも、市場を舞台とせずにできることです。

挙げられた食品汚染にしても、兵器販売にしても、あくまでも犯罪です。実際に犯罪として告発され、処罰されるわけです。兵器にしてもそう。私の考え(立ち位置)からすれば、国家がなぜ兵器を独占できるのかという理不尽を感じこそすれ、銃器の不法所持は大部分の社会で非合法になります。けれど、それはあくまで作った者と持っている者とを処罰しないといけません。入口と出口とを責任を明示すれば、社会の秩序を十分維持できます。

逆に、「社会にとって害になるもの」を流通させた者のみに規制や処罰を加えた場合には、怖ろしいことになります。闇市場……つまり法権力が把握出来得ない世界でのみ流通し、しかもだれもがその「もの」を作ることができ、入手可能になるわけです(しかも、闇市場との繋がりの有無で、銃を手にできる人と手にできない人との「格差」が発生します)。
市場原理は、法権力の働かない社会においても有効です。なぜなら市場原理自体は、別に法律などで決まったものではない……、人と人(1対1)の納得があれば成立する原理だから。
【2009/01/06 18:51】 URL | デルタ #- [ 編集]


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