ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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まりあ観音
まりあ観音、というと、そんなHM系のインディーズのロックバンドが昔あったけれど(これこそ、マニアだな-ヴァク)、彼らとは関係ない。
安土桃山期のキリシタンたちの墓標に、アリア像が刻まれることがあった。
その墓標は、その後多くは朽ちていったのだろう、天草あたりにはほとんど無縁状態で通りかかりに鼻を手向けられているような存在になっていたりする。
けれど、一部に流用されたものがある。
それも多くは、灯籠の基壇というのか柱の部分に流用されるのだ。
その一例を、ここ青岸寺の庭園で見た。
まりあ観音の墓標の上に六方仏を刻んだ六角柱が載り、さらに非対称な笠がかぶせてある。織部のデザインだという。確かに、織部が焼き物で挑戦した「対称性の崩し」のおもしろさを感じる逸品。そんな灯籠が、お庭の片隅にある。

時に17世紀の中頃。
この作例だけではない。丹後宮津のお寺にも、地蔵尊の前の1対の灯籠にも同じ意匠がなされている。

いったい、これらは誰の墓標だったのか。
その墓標……遡ってもせいぜい1,2世代前の人たちのカタミのそれを、平然と「意匠」に取り入れているのだ。

これを「傾き」の気風というのか、それとも「風流」というのか。
権威、それも絶やされたものの傷が生乾きの権威のかけらを、たんなる意匠の一部として取り入れた織部周辺の美意識を、私はどう評論していいのか悩む。

まりあ観音だけではない。
戦国期には、お城を急造する場合には、近在の墓地から墓石を徴発し、石垣の石材に流用する例があった。これについては、福知山城や坂本城の遺構でよく知られている。福知山城と坂本城、その両方は明智光秀の築城による、というところに、私はどうも引っかかっているのだけど、今はこの問題に深入りしないでおく(これらのお城だけではないだろうと、私も深く信じているので)
「光秀が」というはともかく、彼のころの領主達は、旧領主時代の墓標をワザと石垣に使うことにより、旧勢力の権威を否定しようとしたのだろう、というのは、福知山城の調査をした同市の研究者たちの見解。

「日本では、ガイコクと違って墓を暴くような蛮行を行う人はいなかった」
という人がいる。
だとすると、日本には、ガイコク的な人々が住んでいた時期があることになる。
時間的なガイコクの住人たちが。

……文化とは、伝統とは、いったいなんなのか。

青岸寺の灯籠のように、苔むすことで、何だかもっともらしくに見えうるけれど、
誤魔化されているだけなのでは?
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テーマ:神社仏閣 - ジャンル:学問・文化・芸術

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