ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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「社会をつくる自由」について
1.
去年7月に紹介した”在野の政治学者”竹井隆人サンの新著が出ました。
「社会をつくる自由」(ちくま新書)です。

「今日から”政治”をやってくれ」
……ただ単に、上司から指示されたとしましょう。ちんぷんかんぷんなりにも、政治の5W1Hについて情報を集めようとしますよね。まあ、Wのうちの”何を”は政治だし、”いつ”は今日だし、”どこで”もまあ”ここ”なのでしょうから、片づかないのは、”誰が(誰と)””なぜ”と、”どのように”の考え方を知らなければなりません。といって大部分の人にとって、これらの問題に対処の仕方も見当つかないでしょう。
この本は、そのうちの2つ、”なぜ””どのように”とに、非常に具体的なイメージを与えてくれる好著です。
特に注目すべきところは、政治をどのような土台(プラットホーム)のもとで行うかを、まっさらな道を示しています。
日本の民主主義がなぜ根付かないか、いいかえれば日本で「政治」がなぜ胡散臭く見えるかという理由でもあるでしょうが、それを、同調圧力で説明しています。同調圧力により、意志決定しようとする人の集団の内部では馴れ合いが起こり、また、馴れ合いがあるがゆえに、内部での少数者の排除が起こり、おまけに外部に対しても排他的になってしまう、との説明から始まります。
いいかえれば、この壁を越えるために、政治=意志決定の世界において、社会と私との緊張関係を保てる環境を作るように、提案しています(といいつつ、多分に精神的なものなのですが、実は気持ちが大切なのでしょうね)。公の意志決定というのは、何もゴタイソウなことではなく、「私情」を公の世界へ反映させることなのだ、と認識することからはじめるべきなのです。絶対的な正義……云々を考え思い悩むよりも、「私情」を訴え、その訴えをした「私」その人が責任を負うことにより、馴れ合いから脱却できるとしています。……とここまでは、いわば参加者の心のプラットフォーム。
さて、そのような態度で意志決定へいどむとして、議場としては、かれは全員参加の直接民主制を唱えています。といっても、議会の適正サイズもきっちり論じていて、1000人くらいを限度にして、ちょうどマンションの管理組合のような居住区の政治からボトムアップしていくとの方式を示して居ます。
この本の示している政治像自体は、このように単純なところへ集約できます。用語が専門的で小難しい(骨が折れます)のですが、
「なるほど、このような”政治”なら参加できそうだ」と感じた方も多いのでないでしょうか。

2.
ところで、冒頭述べた5W1Hのうち、なおも不明になっている点が一つあります。
”だれ”が政治に関わるのか、という問題です。実は、竹井サンがぼやかしているのがこの点です。
「全員参加」と書いてあるでないか、というなかれ。意志決定に加われない他者と、加わって良い「内なる他者」との境界を考えはじめると、どうも明瞭でないのです。
少し意地悪な例を出しましょうか。
この本でいう私的政府(居住区レベルの政府)として、自分たちが住んでいるマンションの管理組合を発展させたものを使うことにしましょう。その中に、外国籍の家族がいたとしたら、この私的政府へ加わってもらいますか?……原則的には「管理組合」に入れる資格(区分所有者)であるからには、彼こそを「内なる他者」として加えるはずですよね。……が、ここで在来の「政治」との対立が起きてしまいます。近・現代社会における暗黙の合意「政治に加われるのは、”国民”のみである」というドグマと正面からぶつかっているのです。……が竹井サンはひょっとすると、この可能性に気づいていないのかもしれません。
というのは、終章の途中(P192)で、日本社会が馴れ合いの末平和ボケしていて、政府が領土問題へ弱腰な姿勢になっているのを許してしまっている」と唐突に吠えるからなのです。
すくなくとも、「持主(地主サン)」が存在しない竹島については、竹井サンのいう私的政府を作るとしたらどのような人々に参加してもらう必要があるでしょうか。
……結局は、国籍が指標ではなく、竹島に直接の利害を持つ人々、つまり島根県やUlrun島の漁民の皆さんが参加し、その海域での彼らの権益……竹島近海での漁のルールを定めたり、漁業資源の管理方法を提唱して、韓国・日本両政府へ「自主管理」の権利を認めさせたりする、そんな私的政府の誕生を期待することが、竹井サンの政治論の本旨に沿うことでしょう。なぜなら、居住区レベルの政府というのは、結局日常的な利害関係者の集合体でもあるのですから。

つまり、竹井サンは、「政治を具体的に誰の手で行うべきなのか」をまだ整理できてはらへんのやろな、と思うわけなのです。言い換えれば、ある事柄について議決するときに、どれだけの人が係わって決めねばならないか、という範囲……いわば、全体社会に対する政治が占める範囲が、未確定のまま、この本が書かれているわけです。
(さらにいうと、序章で「社会の必要性を認めないリバタリアン」を「愚昧」と一刀両断していますが、これも、政治が社会に占める範囲を未確定……というより過大解釈しているために、出てくるセリフです。
「社会を不要という」リバタリアンはひとりとしていません。ただ、「人間の営みの中には社会的合意(=政治)を経なくても成立するものが多数あるのだし、政府を社会へ過度に干渉させないでおきましょう」といっているだけだからです。
政治学者である竹井サンは、「政治が係わらない人間の営みを社会と認めたくない」から、社会自体を否定していると誤認してしまうわけです)

3.
さて、ここから竹井サンが立てたモデルに対する各論に入ります。
この本での政治についてのモデルの生き生きとした論証の中で、私が疑問に思ったのは、つぎの2点です。
「ルール」を運用する権力について(あるいは、”社会をつくる自由”の編集権)
 判りやすい例として、町並みについてのルールを考えましょう。
 竹井サンは、「通俗なる自由(=放恣)」によってできる「醜悪な」建物によって町並みが崩れることを嫌悪しています。まあ大抵の人は同じ気持ちを持つでしょうから、そこに”政治”が出番となってくることでしょう。
かつては、封建的権力や、カリスマ的な政治指導者(大阪市でいうと関一サン)により、整然とした町並みが企画され実現しています。が竹井サン自身も認めるように、それらへ今後期待することが難しい。「だから……」と竹井サンは結論しています。「(人間)集団による規制」が必要なのだと。そして、このような集合知が積み重なって伝統という知恵に行き着くのだ、と。……よく知られた「保守主義」のルール観ですね。

しかし、私はここで、「整然たる町並みつくり」というルールへ2つの疑問に突き当たるのです。
放恣な気持ちで雑然と作られた建物でも、時間が経過すれば、それなりに落ち着きを持つものなのだという事実……竹井サンも認める通り京都タワーがいつのまにやら”京都らしい光景”を作っているという、時間経過の効果を無視していいのか。建てようとする時点での「らしさ」を根拠に、放恣で醜悪な建物と断定していいのか、という疑問。
もうひとつは、そもそも、「醜悪な景観」というのに定義がなく、それこそ付和雷同的な世論で決まってしまうという現実を忘れていることにあります。近未来の象徴として「AKIRA」とか「ブレードランナー」なんかで取り上げられてきた東京・日本橋上空の高架道の光景が、ちょっとした政治的運動の結果「取り払うべし」と一転した事実。あるいは、「醜い景観を守る会」の活動や写真集「工場萌え」に象徴されるような、美の視点をズラした鑑賞運動がかなりの支持を受けているという事実。それらを考えたことに、単純な「美」を尺度とした社会合意が可能か、という疑問です。
時間の経過に耐え、誰もが文句なしに認めざるを得ないのは、……結局機能美だけでないか、と私は思うのです。たぶん、多くの人にとって、これは退屈な尺度ですよね。合意が得られるのでしょうか。

「政府」を必要と思うのは、「セキュリティ」を得るためか
竹井サンは、政府を作っていく原動力として、ひとびとの「セキュリティ意識」をあげています。防犯から国防に至る、たしかに公共しか担い手のないソフト的なインフラクチャーでしょう(リバタリアンも大多数は、この意味でのセキュリティー提供を政府の存在根拠にあげています)
私も、似た感覚を持っていますが、「セキュリティー」という言葉では言い表せない大きな何かを私たち自身が欲求している、と指摘したいのです。
例えば、自宅に空き巣が入られることによる被害(盗難)には、セキュリティーを高める(各種防犯装置、オートロック、”ゲーティッドコミュニティ”のシステムまで様々)方向性以外に、盗難保険や家財保険に入るという選択肢もあります。実際設営・運営費を考えたら、盗難保険のほうが安いのでないでしょうか。
この素朴な提案が実際の社会紛争の中で行われたことがあります。長良川河口堰の反対派の学者さん(どなただったか忘れました)が、「堰を作る代わりに浸水被害に対する補償システムを国営で作ればいい。そのほうが安上がりなのだ」試算まで示して、説得に当たられたのですが、地元の人の間で猛反発が起きました。「銭金の問題でない、浸水するかもしれないという”可能性”を排除してもらう権利が、我々にはあるはずだ」と。
つまり、被害を避ける(経済的被害を除去する)こと自体が「セキュリティ」の眼目なのではなく、「リスク(=不可知性)を排除する」ことを求める欲求であるわけです。言い換えれば、「泥棒に入られる可能性自体を除去したい」という欲求なのです。安寧な生活を追求している、といってもいいでしょう。
しかし、社会全体で発生するリスク=予測不能な事象は、その量(あるいは規模)を減らすことができません……人間社会への影響を小さくすることは可能でしょうが。となると、リスクを”我々”の居住区から排除するためには、リスク要因を居住区外へ掃き出すよりありません。ゲーティッドコミュニティが非難されるべき理由は、このリスクの掃出し(経済学的な言い方をすれば、「リスクによる負経済要因の外部化」)にあるのだと、私は認識しています。
また、このような掃出しが、現実の社会で行えるのには、政治;旧来の意味での権力の恣意的行使と絡んでいることも見逃せないと思います。何かとつけて、政治権力に訴えてホームレスの人たちの掛け小屋を自分たちの生活圏から排除している、そんな営みを見ていると、旧来の「政治力」の恣意的な行使、そして政治力の腕力比べと、リスク排除の営みとが共依存の関係にある、と私には見えるのです。
竹井サンの立場から見ても、これこそ排すべき「外なる排除」だと、私は確信します。

4.
以上、細かなところに異論や疑問がありますが、
この本は、政治=ルール形成のための方法論あるいはモデルに大きな示唆を与えてくれる点で、稀に見る好著です。
「コミュニティー」という言葉が日本社会の仲間うちで持っているぬるま湯状態へ逃げ込むことなく、「政治」を見失わないことは、私も心したいところです。

この本で竹井サンが示しておられるプラットホームを基にして、リバタリアン社会のための合意形成モデルを、今後紡ぎ出したいと考えています。
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テーマ:日本が目指したい理想 - ジャンル:政治・経済

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