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コメントありがとうございます。 私のブログ記事にコメント頂きありがとうございました。 結局、私の言いたかったことは、全てのことに対して、皆、外側の責任にしてしまうということです。文句があるのなら、全部自分でやればいいし、人にやらせているのなら、一切自己責任にするという姿勢がなければ、議論や口論、喧嘩や殺人や戦争はなくならないということが言いたかったのです。 究極、死に対する恐れを解消しなければ、肉体の保全を考えますので、それを維持するために行動選択をすることになる。だから肉体保全をたぐれば、人を支配コントロールできる。それを判っていて、その上で奴隷になるのは嫌といっているから、いつまでたっても外側の責任追求を続けることになってしまうんだと思います。 自分で奴隷に甘んじていて、自由な世を求めている姿勢では、絶対に自由な世にはならないし、他人の責任を追求する姿勢があるならば、他人を束縛することになるから、これもまた、自由な世にはならない。 求めている自由な世界を実現するなら、まず、自分が全ての責任を負うこと、肉体の死というものへの恐れがないこと、この条件をクリヤーしなければ論理的にも有り得ないと思います。 限定された自由というのは、自由ではないと思うのですが・・・・・。
【2006/07/07 05:12】
URL | 鏡マコト #- [ 編集]
えっと、状況整理から(汗)鏡マコトさん、来訪ありがとうございます。 上の書き込み、ここのみ読んでいる方には唐突なので、まず、状況整理をさせてください。 ==== 鏡さんのBLOGで、 『狂牛病をめぐって、消費者,生産者,政府ともに他人へ責任転嫁して「外側からの安全保障」を求めてばかりいる』ことを批判された記事がありました(私なりの要約) http://minakata100.blog68.fc2.com/blog-entry-5.html#comment1それを受け、私がコメントしまして、 概ね上の記事と同じようなことを書き込みました、 鏡さんのここのコメントは、私のコメントを受けてのものです。 === さて、と。コメント読みまして以来3日、いろんなことを考えました。 「自由」の定義に関わる、かなり難しい問題提起と私は感じます。 自分の意見をまだまとめられてませんので、論点をまず整理いたしました。 (1)自由の範囲:本当に「自分で判断を下す」ことのみが、「自由」かどうか。微妙に意見が分かれる点だと思います。例えば、「信託」という契約形態があります。対等な立場で自由意志に基づき信託契約を結ぶ場合は、自由と呼ぶにふさわしいか。 (2)自身で責任を負えない問題に対する選択について特に子供のころは、将来を予測する智恵のないまま、選択を迫られます。多くの場合は親権者が代わりに判断するのでしょうけれど、些細だけど将来に大きく影響する判断てままありますよね?、駄菓子屋さんで添加物やら着色料のいっぱい入ったお菓子を、お小遣いで買い食いしたものですが(爆)、この報いである…腎機能の低下や味覚障害やらを、「自己責任」と引き受ける潔さを、我々自身が持てるかどうか?仮に「自己責任」と受け入れても、「リスクを取った反映として、予期した結果の一つだから」と受け入れたのでなく(これが自己責任の定義)、「諦め」でしかないかなと考えます。 (文面をお読みしたところ私と同年配の方とお見受けしたので、こんな例を出してみました) 3.『肉体保全をたぐれば、人を支配コントロールできる』との考え方について正直、鏡さんが意図されていることを読みとれているか自信ありません。だから、とんちんかんなことを申したら、修正願います。 肉体に危害が及ぶ状況での選択は、そもそも「自由意志に基づく選択」といいません。肉体の保全するのは、行動原理の最初のしかも逃れ得ない前提であるからです。 コミュニティーや、国家に正当な存在意義があるとすれば、この「肉体に危害が及ぶ状況で選択を強いる」ことを防ぐ役割を期待しているのが大きいと思います。(それらの「POWER」が多重構造になっているのは、保護すべき「POWER」が誰かへ「肉体に危害が及ぶ状況での選択」を強いた場合の、避難先と期待されるからでしょうね) 以下、鏡さん、コメントよろしくお願いします。 また割り込み歓迎です>ALL
【2006/07/10 21:58】
URL | デルタ #JnoDGgPo [ 編集]
そうなんですね 勉強になりました。ヤフーからきました。コメントさせて頂きました。
【2008/11/06 16:05】
URL | sayaki #- [ 編集]
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