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ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
プロフィール

デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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比叡山を越えてみた
ほんとうの地元、比叡山の最高ピークを、言われてみれば踏んだことなかった。いつも坂本側から入って延暦寺のどこかのお堂に参って帰っていたから、比叡山の山頂部にすらいっていないのだ。
さすがにマズイ。ということで、京都市の修学院側から登ってみた。
叡山電車のきれいな電車……きららに乗って数駅。修学院駅からまず修学院離宮の方へ歩いていく。この修学院離宮というのが、いい加減敷地が広い。まず正門から右に折れて、川沿いにまず砂防堤防のところまで歩くのだが……、延々左手に5重の有刺鉄線の柵が続いている。その向うには竹藪があったり牧場みたいな草原があったりするのだけど、「宮内庁・皇宮警察」と厳めしくプレートまで付けて、続くこと続くこと。
砂防堤防を目の前にして、左手の尾根を直登する。2m近くえぐれた底に50cmほどの道がついている。オーバーユースと水はけの悪さの結果で起こる現象だけど、かなり極端だ。ましてここは、平安時代から延暦寺への勅使も通ったという由緒のある道……と考えると、最初からこんな具合でなかったはず、とすぐ気付く。これでは、勅使を乗せる駕籠も馬も通れない。楠木正成が後醍醐サンを延暦寺に逃がそうと献策して、みんな「モットモモットモ」と言ったのも考え合わせると、太平記の頃でも、道はほとんどえぐれていなかったはずだ。左手の頭上にはなおも、例の有刺鉄線ひたすら続いている。
ここで教訓その1。修学院離宮の”しゅう”は執念の”しゅう”。
登山口から30分強。尾根の上に出てやっと、この有刺鉄線が左へ折れ曲がった。下から考えれば、斜面を1km以上囲い込んでいる様子だ。一体何にこれだけの土地がいるのやら(たぶん、お茶席の水を取るために、水樋をひいてて、その水質を維持するために水源を丸ごと囲い込んでるのだろうけど)。
尾根の上は、急に平坦な緩斜面になった……一度ヤセ尾根になりはしたけど、ものの20mほどのことだった。
途中、千種忠顕サンの旧跡の石碑があったりするが、正直興味がわかない。なんといってもこの石碑というのが、イヤに難しい漢文なのだ(正確には文法は日本語的になっている擬似的な漢文)。どうせ小生意気な国学者が、分かりもせずに難しい語句を並べて粋がっているスカスカな『名文』なのだろう。
ハイハイ、後醍醐天皇バンザイ。
(注。後醍醐天皇には恨みはない。彼を正統と持ち上げることで、”世界で一番正しく美しい”日本の姿を知っている偉い人間だ、と自分のことを思いこんでる夜郎自大な国学者や現在まで続く無批判なその後継者たちが大嫌いなだけである)
眼下に宝ヶ池から北山のあたりを時々見下ろしながら、結局休憩なしでケーブルの山上駅についた。……客足は冬枯れ。家族連れが一組いるだけ。
ここで教訓その2。閑散としていると、子供の声はかえって侘びしく響く。
ロープウェイの下をくぐり、雪の全くない人工スキー場の前を通り、ようやく山頂部へ入る山道に出会った。疎らな杉林の中、所々で道の残雪が凍てていた。
駐車場を経て、その脇にある岡状のピークへ。それが大比叡のピークだ。
大きな配水池とテレビの中継塔が二つ。その傍らに山崩しの遊びで崩し忘れたみたいな感じの高みに三角点を見つけた。ここが、比叡山の最高点で京都との境界。ということは、やはり延暦寺の圧倒的大部分は滋賀県側ということになる。
延暦寺へは、西へのそこそこに太い歩道を下る。これがかなりの急降下で運動靴だと足裏・つま先が痛い。延暦寺が近づいてきたのは、参詣者がてんでに突く鐘の音が近づいているのでわかる。一度車道に出るのだけど、その寸前に、歴代のお座主さんのお墓がある。墓石の戒名に「法親王」とあるから、まる分かりだ。

延暦寺については、特に何も書かない。僕自身が信者で中学高校の時に数えられないくらい行っているから何もかもが当たり前に見えて、特段書かねばならないことが浮かばないのだ。
お堂でいうと、東塔の根本中堂、大講堂、西塔の浄土院、釈迦堂、椿堂、あとちょっと離れたところにある瑠璃堂に行って、かれこれ2時間くらい過ごした。
今回はじめて行ったのは、瑠璃堂だけ。これは京都側にある唯一のお堂で、信長の焼き討ちの時に焼け残ったと言い伝えられている。瓦と塗色のない剥きだしの木だけのお堂で、柱の虫食い具合とかから言って、確かに江戸時代より前の建物に見える。
あっと、ひとつだけショッキングな話。浄土院のお堂の前にある徳川家寄進による銅の灯籠のうち右手のほうが、お堂からの落雪を受けて砕けてしまっていた。宗祖最澄サンの墓所という最大の聖地なだけに、はやく修理してほしいのだけど、お守りの修行僧の方は諦め顔だった。

表坂と呼ばれる道で坂本へ下った。昔からの表参道で坂こそ急だけれど道幅も広いし、大した距離でもないし、楽々な道だ。途中に「花摘み堂跡」への案内板もあった。このお堂は、しばらく存在すら忘れられていた。明治初年以前の女人結界である。逆にいえば籠山中の修行僧も、ここまで降りてきて母親と会うことを許されていたのだ(このあたり、案外とおおらかなものだったみたい)。今は女人禁制も解かれてお役御免となにもかもなくなっているーーというか、それ以前にこの道を登っている人もいなくなったけど。
坂本の里は、僕の知る姿からはだいぶん変わっていた。大まかな光景……例えば滋賀院門跡のやたらと高い石垣と塀や高校の校舎とかは変わっていないけれど、宗務庁(天台宗の事務局)の施設や叡山学院(お坊さんの養成学校、専修学校に分類されている)が近代的なビルになっているのが、特に顕著な変わりようだ。それに引換え、門前の商店街がそのままで古くなっていっているだけなのが、なんとも(苦笑)
最後に、思い出して中学の正門を見に行った。卒業制作で作った”お庭(庭園)”が残っているかを確かめようとしたのだ。岩も白砂も残っていて、新たに草も付けられていて、いよいよ”お庭”ぽくなっていたのが嬉しかった。しかも……残っている!タイルモザイクのこの文字が!
「昭和60年3月卒業生一同」
大切にしてくれたはるのに、ひとえに感謝です……。
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テーマ:登山・ハイキング - ジャンル:旅行

この記事に対するコメント

はじめまして。タカオと申します。
 make your peaceからここにたどり着きました。
 一時期滋賀県に住んでいたこともあり、琵琶湖や比叡山にはかなり思い入れがあります。でも、比叡山麓の最高点に関しては何も知りませんでした。
  
 それにしても、最澄さんの墓所の姿は、最澄さんの「汝童子を打つことなかれ」の言葉が空しく聞こえる時代をあらわしているようで、少し悲しい気がします。
【2006/02/23 23:07】 URL | fttv #YI5xO0xI [ 編集]


タカオさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
灯籠は、雪解けののちに修理が始ることと思いますが……
喪失感は、どことなくありますね。

徳を以て恨み報ぜば、恨み即ち尽く(遺戒より)
そんな言葉もありました。
なかなか達せられない境地だからこそ、戒めになりうるにしても
確かに、失われたものがある、と思います。
【2006/02/26 22:10】 URL | デルタ #- [ 編集]


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修学院離宮修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は京都市左京区の比叡山麓にある宮内庁所管の離宮である。17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾天皇|後水尾上皇の指示で造営された。.wikilis{font-size:10px;color:#666666;}Quotati 京都探索どっとこむ【2007/07/29 03:52】