ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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向かい合う「差異」(鷺沢萠著「ビューティフル・ネーム」によせて)
更新が1週間以上開いていまいましたね。
この間、強烈な想いに取り憑かれ、何か書かねばならないと思いながらも、手に付きませんでした。

ことの発端は、桑名市立博物館に行った帰り、駅前の通り沿いにあるブックオフで、一冊の文庫本を買ったことでした。

その本は鷺沢萠サンの「ビューティフル・ネーム」という短編小説集。

サギサワ・メグム……彼女は、私にとって直視できないほど眩しい人でした。年齢でいったら、1学年上なだけの女性が、すでに高校時代から作家活動をしている、それだけでも眩しいのに、
写真を見るに整った目鼻立ち、エッセイ類でかいま見える自信に満ちた言動、都会的かつ国際的な生活センス、文章に表れる繊細すぎるほどの心理描写、どれも私にとって異世界の人。
違った世界とはいえ、高校から大学の最初の2年くらい文筆家(サイエンスライター)を目指していたからこそ、彼女が眩しくそして妬ましく、何かの機会に仮にお会いできたとしても、逃げ出してしまうだろうな、といじけていた私。
そう、私は、天王星くらいには太陽から遠ざかった世界の住人でしたので。

疼くものがあり、その小説集を買い求め、帰りの電車の中で読んだわけです。
在日外国人の参政権問題について書く、とかいっている私にとって、何と重い内容であるか。

あまり知られている小説集でないかも知れないので、若干の予備知識として、彼女自身とこの小説とについて、紹介しておきます。
広く知られている通り、彼女は6年前に亡くなっています。この「ビューティフル・ネーム」は、彼女が急死する時点で書きかけであった、3部作の連作小説集であり、それらすべてが、同世代の在日韓国・朝鮮人にとっての「名前」に関わる話なのです。
こう書き直すとお分かりになる人も多いかな?
「通名」という問題についての話なのです。

彼女は、一時期から、自分が朝鮮系のクォーターであることを意識して、朝鮮系1世だったお祖母様のことを重ね合わせて、作品を書くようになったのですが、
やはり、この3部作が「集大成」なのかも知れません。

3編のうち2編「眼鏡越しの空」「故郷の春」は完成していて、「ぴょんきち/ちゅん子」と仮題が付いているものが、2種類の書き出しがありつつも、どちらも10ページほどで止っています。

2つ目の物語、「故郷の春」が1970年生まれの男性の話で、時系列的に一番早く、
「眼鏡越しの空」「ピョンキチ/ちゅん子」が、80年代前半生まれの同じ女性「ちゅん子=チュー先輩」にかかわる作品。
この10年くらいの差が、実は登場人物達の「通名」に対する態度が微妙に異なる原因になっている、というのは、私の読み過ぎかもしれません。が、私には、心当たりのあるからこその「読み」です。

「故郷の春」で自分語りをする青年「姜江以士(カン・カンイサ)」クンは、私より1学年下に当たる設定になっています。。もとは、「姜山江以士(きょうやまえいじ)」という通名を名付けられ、特に韓国籍であることを周りへ知らせることなく高校までを過ごしています。思春期に韓国人である自分の姿にだんだん違和感を覚えていたものの、それを内に秘めていたところ、大学で韓国人の留学生に出会ったり、指紋押捺廃止運動を目の当たりにして、本名を選ぼう、と決意する、という軌跡をたどります。
私も同じような光景を、大学時代に目の当たりにしました。
設定と同じ頃、私は大阪の某公立大在学中。23人しかいない学科に、1人韓国籍の3世の人がいて、卒業を機に「名前の読みを韓国語読みに変える」と宣言したこともありました。その彼に誘われ、地方公務員採用試験で門前払いになった韓国籍の学生さん(2年先輩です)の裁判を支援したりもしてました。
そう、在日韓国・朝鮮籍の人々にとって、かなり「熱い」時代であり、私と同世代の彼らは、民族意識を意識的に明確にしていく(あるいは、獲得していく)のでした。
タブーという言い方が正しいのか、私には自信がありません。が、隠してきたために忘れかかっている「ルーツ」を、取り戻そうとしていた群像を、私は目の当たりにしたのです……。
作中の「カンイサ」クンにしても、私の同期生の彼にしても、名前の読みを韓国風に変えただけでした。……漢字で書くと何も変わるわけでなく、周りにいる私たちにとっても、「ああ、そうなんや、呼び方気ぃつけんとなぁ」程度の反応で済むものだったのですが、作中で語る「カンイサ」クンのこのセリフに、「名前」の持つ「重さ」を、思い知らされたのです。

『でもたいていの周囲の友人知人には僕は「キョーヤマ」として認識されているわけですから、そんな中で「姜です!僕の苗字、ホントは姜って言うんです!」って急に叫んでみる、というのも、何か違うような気がして』(掲書P.145)

そんなモヤモヤを、私のような周囲の人間のために背負いつつ、反応をうかがうようにして、彼らは宣言していたのだな、と思うと、同級生に宣言された当時の私も無神経だったな、と今更ながら知るのでした。
彼に、彼らしさを失って欲しくなくという一心で、「名前は、そうなるとしても、○クンの雰囲気のままでいて欲しいなあ」と、ほろ酔いの中でいった私(偶然ですが、彼の苗字は、どちらの読みでも変わりませんでした)

私は、彼を見てはいたけれど、彼と私との間を結ぶ……呼び掛け合う”名前”が変わることの(あるいは、本名にしたことでの)、であらたな、関係ができる可能性に、気付かないまま、卒業を迎えたのでした。……そのことについて、どう思っていたか……。

「眼鏡越しの空」
この物語の主人公は、もともと本名を使っていて、中高の6年間だけ「通名」を名乗っていた、という女性「崔奈蘭(サイ・ナラン)=前川奈緒」サンの、高校時代の先輩「白春純(パク・スンチュン)=チュー」先輩に、大人になってから告白する、という話。
女子校らしく(笑)凛々しいチュー先輩に憧れ、親に最初に貰った名前「奈蘭」を幼いころに「嫌だ」と親へ言い放った罪も感じ、「大学入学とともに本名へ戻そう」と決心する彼女……そこに民族意識はうっすらとあるだけ、モヤモヤとしつつも自分らしさを取り戻したい、という一心であったような、そんな感じでしょうか。
ただ、自分の本名を明かし「名前を戻す」ということを、親しい同級生たちへしっかり伝えようとします。そんな中で、”ナオ”という中学時代からの親友がひとり「誠実に」、”韓国人としての名前”に変える彼女へ差し向かいで話をする、という場面が登場します。
 ・民族という意識は、相手からは「拒否」と見えることもある
煎じ詰めると、それだけなのですが、2人の間に4年間漂った避けているのかも?的な雰囲気を、その対話で総括し互いを認めていきます。2人の言っていること、考えていることが、客観的に見ればすれ違っているのですが、それも判った上で。

国籍・民族という判りやすいものでなくても、人には差異があります。その差異は、偏見のもとになるかも知れません(いつなってもおかしくありません)
が、名前を「ありのままに」呼ぶことで、「私」は「彼/彼女」を第三者と呼び分けるすることができ、「彼/彼女」はこちらを向いてくれる。

鷺沢サンは、そう明るく確信し、私たちに問いかけています。

「他者のないところにいる自分がこわいというのもあるんですよ。たとえば私がボーッと立っていても誰も認めてくれなくて、「あそこに女の人がいるな」くらいにしか思ってもらえないというのは、すごくこわいじゃないですか」
重松清さんによる解説より。鷺沢サンへのインタビューを引用したもの)

そんな彼女は、今の抽象化された「他民族」への憎悪を、どんな風にみることでしょうか……。
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