ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
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デルタ

Author:デルタ
四十才代、三重北勢在住の技術者です。ちょっとだけ営業マンもしてました。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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「貧者の一灯」からの脱出
仏典に、「貧者の一灯」ということばがある。
お金持ちが、金に飽かせてなす寄進よりも、貧しい者からの小さな(そして心のこもった)寄進を尊いものと考えよ、という教えである。

精神論としては、まさに尊い考え方だし、それが仏教国であった(過去形にする)各種の社会事業へ敬意が払われる一つの根拠でもあった(金持ちと活動がつながらなかった分、敬意をより受けやすかった)。
が、高貴であるがゆえに、長続きした例がなんとも少ないし、社会的にその種の活動が根付くことも少ない。聖武天皇のころの施薬院は彼一代で終わったし、北山十八間戸も結構長く続いたけれど、結局今は「遺跡」になっている。
西欧の孤児院の伝統や、赤十字のようなしっかりした基盤のある組織だった活動へつながることもなかった。

社会事業だけでない。
いわゆる「お金儲け」につながらないすべての活動は、
日本では、「無償の愛」を前提に気高く行われていて、
その代償として、「介護疲れ」や福祉現場の信じられないような低賃金へもつながっている。

私も中年の域の年齢になってきて、上に書いたような問題に思うところがあり、数種類の社会活動のNGOへ定期的な寄付をし始めている。(そのひとつが、一昨年紹介した「北海道教育大教育支援基金」)


拝金主義の市場原理主義者が、合計でも月数千円程度の寄付で、何を自己満足しているのだか……
私自身が、偽善者と言われるのは、甘んじて受ける。聖飢魔IIの元信者でもあるから、そう呼ばれることに抵抗もないから。

しかし、活動報告書や会計報告を読むたび、私は思う。
「善意」という美名に、圧縮される「活動に関わる人」の生活(日常生活)が厳しい状態で放置されているのだろう、と、それらの資料の言外に読みとるのだ。
キッツイ言いようではあるが、
こういう活動を実際にやる人にこそ、キツイ仕事であるからこそ、しっかりしたものを食べて欲しい、心豊かな人であって欲しい、そしてそのためにしっかりした生活基盤を持っていて欲しい、
そうでなければ、「活動」は持続できないはずなのに。

みなさんにも実態を具体的にイメージして欲しいので、実例を少しぼかして書こう。
タイやラオス、カンボジアなどでの、図書館を整備しようというボランティア組織が日本にある(ここも、私が定期的に少額の寄付をしている組織)。

事業費用年間約5億3000万円。
日本人職員さんが、43人、さらに現地職員さんが137人。
こういう活動において、人件費、管理費はどの程度になるだろうか。

会計報告書によると、管理費支出は、1400万円強。……おそらく、だが、ここには人件費は、入っているとしても、各事業費目へ割り込み不可能な経理・総務の職員さんの人件費だけだろう(4~5人といったところか)
このように考えると、職員さんの人件費(給料+社会保険料)は300万円程度以下ということになる。
逆に、43人の日本人職員さんに500万円の人件費を確保しようとすると、それだけで2億円まで達してしまう。
そこに文字通りの「管理費用」……事務機器や事務所の維持費(家賃とか光熱費とか)が加わって……、
まともな人件費を確保するには、結局総事業費の4割くらいが、現場へ届かず「日本で」使われてしまうことになる。

 日本ユニセフ協会に浴びせられる例の批判……「寄付金の2割が実際にはユニセフへ届けられない。これは目的外の使用であり「横領」でないのか」、というもの……や、
あるいは、黒柳徹子サンが、アグネス・チャンさんが、贅沢な生活をし、カタチばかりの視察をしている、と言う種の批判へもつながっていく。

ボランティアとは「気高い献身的なもの」だという呪縛は、
結局、キレイゴトの上に成り立っていることが、今の計算からもわかるだろうに。

このような初歩的な「問題」で批判が起きて、「自己満足な活動だ」と社会的に切り捨てられ無視されている日本社会に比べると、
米国社会での割りきりがなんとも眩しい。
たとえば、
投資信託の運用会社フィデリティの外郭団体が、社会事業への寄金をあつめて証券で運用し、運用益も上乗せして事業を行っている話や、
数多くのNGOがその事業運営を効率化するために、PFドラッカーとアドバイザリ契約を結んでいた(さすがに顧問料は低くしていたという話だけど、あれだけ高名な人と契約するとなると、まさか数十万円/年というレベルでは済みそうにない)
なんて話がある。ここまで割り切った活動が許されるならば、私もこのようなことを書く必要もない。
しかし、今の日本の社会の雰囲気のもと、
人々が(上に書いたような批判をする人々が)、言葉を極めて批判するのが、目に浮かぶようだ。


社会事業は、「施し(仏教でいう布施)」ではない。「事業(仏教でいう「仏業」)」なのだ。それを持続するには、費用がかかるのだ。
このあたりのことをを、今後も、機会をみつけて訴えていきたいと思う。
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テーマ:貧困問題 - ジャンル:政治・経済

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