「考えるための書評集」というBLOGで、階層社会の議論は「煽り」でないか、と疑義の声を挙げておられる。
「下流社会」や「階層社会」という言葉が世間をにぎわすようになったが、人を脅かして得するのはだれなのだろう。
商売なら人の恐怖を煽って儲けるのが常套手段である。たとえば「カッコ悪い」「哀れだ」「なさけない」と脅して上級品や高級品を買わせるようにそそのかすのは、どこかしこの商売にもみられることだ。 (大胆な中略お許し乞う) そもそも下流や上流ってなんの序列やヒエラルキーなのか。上位にくるものは人々が無条件に羨ましがり、憧れられるものなんだろうか。 序列の幸福と主観の幸福
このように冷静に分析できないまま、あがいてしまうことそれ自体が、この種の議論を利用する人たちの術中にはまる原因だろう。
じつは、彼は彼、私は私とのワリキリができれば、階層自体が社会の混乱を呼ぶことはない。しかしこの場合、「貧」と「富」の間に交流不能な社会像の差を生む可能性がある。それもつまらない話だ。 そこで、私は呻吟してしまう。
「負け犬には負け犬の戦い方というもんがある」 「月下の棋士」に出てくる真剣士の吐いた不気味な宣戦布告の言葉、にこんなのがあったようにおもう。(真剣士……賭け将棋の棋士。阪本順二監督の映画「王手」の主人公もそのひとりと言ったほうが、……もっとわかりにくいか) 勝ち組・負け組の議論の一番の落とし穴は、同じ土俵で戦わねばならない、と世間が強制することだ。 例えば。 仮に、幸せを「贅沢な消費のチェックリストを埋めていくこと」と定義するならば、金持ちに貧乏人が勝てる訳がない。だから、古来、ルールをひっくり返す、という手段が流行ってきた。室町時代の闘茶が、桃山から江戸の始めの侘び茶へ価値観が移ろうにつれ、お金持ちによる圧勝という状況が解消されていった。 肝腎なのは、従来の「成功者優位の競争ルール」にダウトの声を挙げて、競争のルールを転換させることである。このルールの転換こそが、文化の進展であったはずだ。
今西錦司サンの本にあったのだと思うが、彼の言ったという大意こういう感じのフレーズが大好きだ。 「強者・適者が進化し生き残ったのではない。弱者・不適な者が進化し環境へ適応していったのだ」
そういえば、格差社会を非難するときに「適者生存を当然視する社会的ダーウィズムの考えが背後にある」といわはるよな……。 そもそも「社会的ダーウィニズム」が、市場原理主義の結果現れる社会の描像として正しいかを疑ったほうがよい、 と今西錦司サンの真似しぃで提議したい。
(もっというなら、自然な描像として成り立ち得ない「適者のみ生存できる社会」を法権力を使って作ろうとしている、という点こそを非難したい。社会は、別に政府の手で保護しなくても、その本質としてヒトの生き方の多様性を内包している。多様性がなくなるのは、過当競争の結果でなく、人為選択が加わった結果だろう) テーマ:社会 - ジャンル:政治・経済
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