ほしあかりをさがせ
山登り・サイクリング・星見・石仏探し 本命は何なのか、出たとこ勝負で行ってみましょう
プロフィール

Author:デルタ
三十才代、三重県在住の光関係の技術者です。
ネット上では、磨崖仏の研究家としてごく一部の人から認知されてる(らしい)。磨崖仏・星見・歴史小説創作については、本館のHPを見て下され。

他の任務:東洋的リバアタリアニズムの確立。
       日本まんなか共和国 勝手に観光大使

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私がリバタリアニズムへたどり着くまで(その1)
3つ下の記事で引用した、考えるための書評集うえしんさんに引用をお知らせしたところ、
「どういう本を読んで来たか」と質問を受けました。
この機会に、私がどんな本を読んでこういう考えにたどり着いたか、2回に分けて書くことにします。
司馬遼太郎サンからマレー・ロスバードに至る、なんて説明抜きに並べただけでは、理解不能だろうから……長くなりそうな気配。
〔司馬サンがわからなくなった〕
司馬遼太郎サンの「龍馬がゆく」を読んだのは小学校5年のときだったと思う。闊達さに憧れたものだ。その魅力が司馬サンの文章の調子にある、と一度は思った私、以降二年くらいの間に、「燃えよ剣」「覇王の家」「関ヶ原」「城塞」あたりも読んだ。読みすすむうち、彼の小説が、いわゆる「小説」からはみ出していることが気になりだした。「城塞」「人斬り以蔵」あたりが、人間像の陰影をよく描けていて小説なのだけど、長篇になるにつれ人物像がステレオタイプへ陥っていく、と感じたのだ。
これは、何か裏にある。本当に語ろうとしている彼流の思念があるはず、と読み解こうとしたのだが、……中学生には無理だった。平凡にな結論に行き着いて、猛烈な反発心を持つことになった。
原因はエッセイ集「ロシアについて」が強かったと思う。「ロシア(ガイコク)の脅威」を異様に強調する筆運びは、戦後泰平の時代しか知らない身には偏ったものにしか見えない。
「それは違うやろ、明治以降のエライさんの言いなりやんけ!」
と生意気に切り捨てたわけだった。

〔もう半分に出会う〕
高校時代は、水上勉サン新田次郎サンの歴史小説を読んでいた。その中で何作か面白いのがあるけれど、今回は割愛する。しかし、お二人とも、新作が出る状況でなかった(新田サンは亡くなって数年経ってたし、水上サンは寡作だった)。
その代わりに目に留ったのは、第一回新田次郎文学賞受賞作、だった。
佐藤雅美サン……今は重厚な捕り物帳を書いておられるけれど、このデビュー作「大君の通貨」は異様なものだった。幕末の”一分−ドル”為替レートが決まっていく前後のスキャンダラスな外交交渉と、その結果の”一分”安によるインフレ発生までのメカニズムを描いた、歴史経済小説だ。
この説は今でこそ定着しているけれど、1987年当時は歴史学者に受け入れてもらえなかったくらい先鋭な発見だった(経済史の学者さんは別ルートで知っていたらしいが)。そんなに先鋭なモノをリアルタイムで読んだのだから、その興奮を察して欲しい。「オレ、歴史の半分くらいしか見ようとしてへんかった!」……残り半分、つまり経済的な側面に目覚めたきっかけは、ここだった。

〔エンジニアは考える〕
というわけで経済学部へ進学した、
といえば話がわかりやすいが、深く考えず工学部へ進んだ。
エンジニアになるんや、と心に決めると、やはり「技術者の倫理」というものを意識せざるを得ない。
柳田邦男サンの「空白の天気図」森村誠一サンの「悪魔の飽食」(これを技術者の倫理という観点で読む人は珍しいだろうな−苦笑)は、社会のありようへ誠実に向かい合わねば、と思うのに十分だったし、ふとしたキッカケで四大公害裁判サリドマイド事件の訴訟記録も読んで、専門バカにだけはなるまい、と堅く心に誓ったものだ。(気分転換でよく行ってた大阪府夕陽ヶ丘図書館にあった;今はこの建物特許情報センターになったが、これらの資料は中之島図書館へ引き取られたのかな?)

ところで。
専門バカになりたくない、と読み出して、実はいまだに読めていない本が一つだけあるのを、ここで告白しておこう。
E.リーチさんの「社会人類学案内」
5回くらいトライしたけれど、いつも第四章あたりで挫折する。だが、彼の主張の一つは、僕にとっても堅い足場になっている。
「文化は多様である。その一方で、それらの文化の一つに注目し観察・研究を重ねることで、人類一人ひとりにとって普遍なモノが見いだすことができるようになる」
僕は日本史しかわからないけれど、だからこそ、日本史を綿密に観察して、社会にとっての普遍を見いだそうとしているのだ・・。

〔自由の原初へ〕
大学院修士課程を終え、社会へ出て1年経たない内に阪神淡路の震災が起こった。そのころ川崎に住んでいたので、結局TVを通してしか何が起こったかを知らない。けれど、その光景は、駆け出しのエンジニアの僕を価値基準を無茶苦茶に混乱させた。
設計とは?見積もりとは?信頼性とは?……わからん!!
その混乱のさなか、えらくアナーキーな本を読んだ。笠井潔サンの「国家民営化論」。ユートピア的に描いたアナーキ社会の説明ではない。「政府は、左(マルクス主義)でも右(レーガノミックス)でも、社会を設計し得ないことが判明した。だから政府に期待しない。ただ、我々に完全な自由だけをくれ。そうすれば、全てを”自業自得の潔さ”で受け入れる」と、ハードボイルドに宣言する。その「完全な自由」を保障するためには……彼はさらに過激な要求をする。曰く「遺産相続の禁止」「成人したとき自らの意志で国籍を決める(それまでは国籍を強制しない)」「天皇制の民営化」「政府の交戦権の否定(国の意志で死なされてタマルカ、と言う理屈。国民総武装によるパルチザンを提唱している)」
ヒーローもの系の推理小説を書く笠井サンの、いかにも彼らしいハードボイルドな社会像に一度は笑ったけれど、今では、僕に一番親和的な社会像に思えるから不思議だ。
アナーキといえば、坂口安吾サンの「堕落論」をはじめとする戦後混乱期のエッセイもほとんど全部といっていいくらい読んだ。「堕落」……というからわかりにくいが、実は倫理の再構築を訴えているのだ。彼は「倫理観」と「賢者」が導く社会に限界があることを戦争期に気付いていったのだろう(さすが、戦争期に挫折した政治家の父、兄を持つだけある)。
新時代の倫理は人間の肉体と本性に根ざしたものでなければならない。さもないと嘘が入る。その倫理を得るためには、徹底した内省が必要だ。
……いまもって耳が痛い指摘だと身に染みる。

(続く)

テーマ:雑記 - ジャンル:政治・経済

この記事に対するコメント

私のリクエストにお答えいただき、たいへんありがとうございます。

司馬遼太郎とマレー・ロスバードがならんでいるというのがすごいですね。
司馬は保守か、リベラルか、どちらだったんでしょうか。
財界人に支持される作家ですから、けっこう自由主義の考え方をもっていたんではないでしょうか。

私は社会学や思想を読んできた人間ですから、歴史の「個別性」にはどうもついていけないのですね。
リーチや社会学者の「普遍性」のほうに価値をおきます。
たぶんに個別と普遍の興味に頭が向くタイプの違いみたいなものがあるんでしょう。

人間の頭によって設計された社会には限界があるといったのは、古くはバークやトクヴィルあたりからでしょうか。ルソーやマルクスは人間の頭の可能性を無邪気に信じられた人たちですよね。ハイエクなんかがその限界をはっきりと口に出した。知性のある人はどうも社会をその知性によって支配したがるみたいですよね。

次回はぜひリバタリアンのおすすめブックを紹介してほしいです。
ロスバードとかD・フリードマンとか、あまりにも高い本ばかりなので、いまのところ読もうかどうか迷っています。
よい道しるべを与えてくれるとたいへんありがたいのですが。
【2006/04/20 20:09】 URL | うえしん #- [ 編集]

おおっお題が外れていましたね
うえしんさん、ご来訪ありがとうございます。
あ、そうでした、そうでした、
お題は、お勧めのリバタリアン本でしたね(罰杯>自分)
その2も、単なる遍歴の記になってしまいました。お許しを〜。

ロスバードの原文の多くは、ネット上でフリーコンテンツとして提供されていました(もうご存知かも?)
著作権にこだわるのは、言行不一致やぞ〜!
とか抗議して、
値切ってみましょうか(笑)
【2006/04/21 00:03】 URL | デルタ #- [ 編集]


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